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【出版記念インタビュー】アウティングはなぜ問題なのか? 松岡 宗嗣

今回は、初の単著『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房、2021)の出版を記念して、著者の松岡さんに執筆のきっかけ、本学アウティング事件に関して取材しました

松岡さんは大学時代からオープンにされていますが、大学生活を回顧していただけますか?

 「大学からオープンにしよう」という意識があったので、結構強気でした。クラスの自己紹介の際やその数日後に新歓(イベント)みたいなのがクラスであった際も、そこですぐカミングアウトする、くらいの感じでした。なので、中にはもちろん差別的な認識に基づく微妙な反応はありました。直接的にヘイトをぶつけられるということは多くはなかったけれど、一方で「ホモネタ」みたいなのはまだあって、それをうまくかわしながら、とはいえ、全否定されるわけでもなく、うまいこと生き延びられたと思っています。
 一方で、当時所属していた性的マイノリティの当事者が集うサークルでは、周囲に「全く言っていない(=カミングアウトしていない)」という人がほとんどでした。だから公認サークルにしようと思うと、大学に責任者の数名の名簿を提出しなければなりませんが、その時カミングアウトしている人は少なかったので、大学に名前を提出することへの恐れがありました。そういった時にどうするか。入ったばかりで特にリーダー的な役割をしていないけれど、「自分の名前でよければ使ってください」と名前を使ってもらうということはありました。
 そういうところから、アウティングのリスクというのはみんなそれぞれが考えていたし、例えば大学の中で会う時に「あの人はなんの友達?」と聞かれたらどう答えるか、ある種冗談的な語りで、しかし半分はすごく真剣に議論をしていました。「何々の同好会ということにしておこう」といったことなどを考えなければいけないような状況だということは、リアルなことだったと思います。
 また、自分がオープンにしているからこその悩みはありました。例えば、学部は違うけれど、自分と同じセクシュアリティの友人と学食でランチをしていて、お互いそれぞれの友達とすれ違った時に、私自身がオープンにしているからこそ、「松岡と一緒にいると言うことは、つまりそういうことか?」と思われるんじゃないか、そういうような懸念をいつも考えざるを得ませんでした。自分自身がそれでしんどい思いをしたか、と言うよりは、自分がオープンだからこそ生まれる懸念があったし、自分の周りの状況を考えざるを得ない状況だったかなと思います。

高校の時はクローゼット(カミングアウトしていない状態)でしたよね?

 そうですね。クローゼットにしすぎるのもそれはそれで、という認識はありました。笑い(のネタ)にしたり、いわゆる「ゲイキャラ」のように認識されていた時もあったので、中には「松岡宗嗣はゲイなんじゃないか」と本当に思っていた人もいただろうし、冗談だと思っていた人もいた、というような感じですね。

オープンになってからは心境の変化はありましたか?

 マジョリティの人に対して嘘をつかなくてよくなり、自分のことをただ自分のこととして伝えられるというのはこんなに楽なんだな、とは思います。一方で、今はジェンダーやセクシュアリティの社会構造について考える機会が増えて、その上での言動をしていますが、大学生時代を振り返ってみると、例えばオープンにしたからこそむしろ、いわゆるメディアとかで表象されるような「ゲイ像」を演じなければいけないんじゃないかという認識から言葉を毒舌にしてみたりとか、「オネエ言葉」をやってみたりとか、そういうようなところも無きにしも非ずでした。オープンにしたらそれはそれで社会からの期待、役割や規範をある種察知していた部分もあるかな、と思ったりします。

神谷悠一さんとのご共著『LGBTとハラスメント』(集英社、2020年)で、当事者は情報管理が大変とおっしゃってましたね?

 オープンにしよう、と決めた時にはある種、カミングアウトすることが本当にパブリックにすること、本当に「オープンにする」というような認識だったので、そこから伝わってもいい、という認識でした。アウティングが起きても、ある程度仕方がないと思ってのカミングアウトでした。しかし、それもあるNPOに所属して「活動」をし始めてからで、それまでの間のグレーな期間は一部の人にしか伝えていなくて、そこから勝手に広まって、ということは実際にありました。
 やはりオープンにしてからはいくつか変わったな、と思います。例えば自分がカミングアウトしていない範囲で知られているということは、ある種自分の人となりみたいなところはまったく知られないまま、「ゲイ」という部分だけが認識されているような状況です。そうすると先の「期待される役割」も変わってくることもあるし、「逆に触れていいのかな?」というような接し方をされることもありました。もちろん、ステレオタイプ的な接し方はされたくないけれど、一方で「可哀想な人」という一方的な認識をされたいわけではないというのは、少なくない当事者が思っているのではないかと思います。
 聞きたいことはもちろん聞いていいけれど、発言が偏見・差別に基づいているかも知れない。そういったことを考えながらコミュニケーションをとってくれれば全く問題ないんですけど、やはり皆が性に関して適切な情報を有している訳ではないので、その点はオープンしたからこそ変わったと思います。
 あとはTwitterなどネット上のいわゆる誹謗中傷の問題は、オープンにしてからはそれだけ増えました。いわゆる社会的な活動に対するフォビア(嫌悪)ももちろんありますけど、単純にホモフォビアな発言は繰り返され、それがぶつけられるということはよくあるので、SNSの使い方も自分の中で変遷があるのはやむなしなのかな、とも思います。

今回のご執筆のきっかけになったのは、一橋アウティング事件ですか?

 当該事件自体は報道当時からずっと注目し続けていたのですが、やはり控訴審判決が昨年11月25日に出て、そこから頭の片隅にあったのは、一連のアウティング事件と裁判、それにつながる社会の動きをどこかでまとめる必要性があるだろうということです。
 もちろん本田さん(LBN代表、今回のインタビューアー)らがリソースをまとめたりしているので、「私がやるべきことは?」と考えていました。アウティングという行為、問題自体は議論がまだまだ深まっておらず、当該事件以外にも被害が起きていて、それらを論じる必要があるのではないか、というところが執筆のきっかけになりました。
 当該事件控訴審判決で、アウティングは不法行為であることを認定してくれたのは明らかに画期的だったし、裁判を提起したことによる社会的なインパクトはすごく大きかったです。自治体の条例しかり、パワハラ防止法を通じて問題がちゃんと提起されたのには大きな効果があったと思うのですが、この裁判では大学が責任を負うことはなかった。背景としてのシスジェンダーの性別二元論、異性愛中心主義という社会の「前提」や「規範」というものが疑われることはなかったわけです。大学に責任が科されることはなく、アウティングが秘める「なぜ被害が命の問題につながるのか」という課題を直視できなかった判決だったので、当該事件はもちろん問題意識としてずっとありました。

一橋アウティング事件裁判の印象は?

 地裁判決を見たときにはすごくショックでした。アウティングの問題性にすら触れられなかったことに対して「司法は何のためにあるのか」と改めてそういう絶望的な気持ちになりました。だから、控訴審判決では人格権とプライバシー権を持ちだし、不法行為だとしっかり判断してもらえたということは、当事者として嬉しいという気持ちもあり、画期的だったと思います。それでも本人の命が戻って来るわけではないので、その判決を聞いても、いわゆる「勝ち取った!」みたいな雰囲気というのは自分自身持ちませんでしたし、法廷の中も全くなかったとは思います。もちろん遺族の方もそうであったと思います。
 ただ、やっぱりあの判決の効果とのものは大きいと思います。他のケースで言うと、豊島区でもアウティングの事件が起こりましたが、様々なケースにおいてもアウティングは不法行為であることが事前に示されたというのが1つの大きな後ろ盾となって、アウティングの危険性とそれに対する応答や対策を求める動きが力強く進められています。だから、やっぱりこの判例が1つ裁判の中でちゃんと判断はされたというのは大きいかなというのはすごく感じます。

一橋アウティング事件裁判、一審(東京地裁)の判決に対しての補正
「確かに、本件アウティングは、Aがそれまで秘してきた同性愛者であることをその意に反して同級生に暴露するものであるから、Aの人格権ないしプライバシー権等を著しく侵害するものであって、許されない行為であることは明らかである。(〔…〕Aと本件学生(Z被告)との間に少なからざる葛藤があった可能性がうかがわれるが、そうであったとしても、そのことは本件アウティングを正当化する事情とは言えない。)」

一橋アウティング事件裁判は「アウティング」という語を普及させた?

 アウティング事件が報道された時点で、特に当事者コミュニティを中心に一般の社会においても、アウティング問題が指摘され、それが問題なんだと認識してくれる人が増えたかなと思います。一方、調査をみてみると、やはり「アウティング」という言葉を知ってる人はものすごく少ない。厚生労働省の職場実態調査においても、いわゆる性的マジョリティの人で、アウティングという言葉の意味を知っている人は、性的マイノリティの友人がいない人だと1割にも満ちません。報道されたことによって言葉や実態が知られる「きっかけ」にはなったけど、全然知られてないことには変わりないと思います。
 例えば、川口遼さんが指摘をされているところが、「周りの反応」と「その対応」です。一橋アウティング事件において、アウティングが起きた時の対応が、まさにその異性愛を前提とした社会における個人間のトラブル、恋愛に関するトラブルとして処理・対応されていました。その背景にあるアウティングっていう問題における被害の甚大さには、ほとんどの人は気づきませんでした。だからこそ命の問題につながっているのです。さらに川口さんの言葉を借りれば、結局、異性愛を前提にした個人間の恋愛の話に等閑視されていた訳です。そういったところで本人の問題の所在といったものが伝わらないまま、ある種「矮小化」されたり「軽視」されたりして、結局転落死につながってしまったのだと思います。そこが大学側の責任として問われなかったというところにおいてはすごく忸怩たる思いがあります。

名称未設定

一橋アウティング事件裁判の問題点とは?

 係争中の一橋大学のメッセージや声明において、問題を本当に認識できていないのだと感じてしまうようなものが多かったと思います。性的マイノリティとは言明せずに「マイノリティ」というモヤっとした反応をしたり、そこから滲み出ているのが、まさに問題の所在にあたるのかなと思います。
 大前提として、どんな問題であっても命が亡くなっているという事実がある時に、「人知が及ぶ範囲ではない」というような言葉が最初に出てきてしまうことにショックを受けます。大学の中で起きているのに、周りの対応は個人間のトラブルとして回収していいものなのか?大学の考え方と密接に繋がっているわけですが、結局大学側も、個人間のトラブルとして大学が感知できるものではなかったと処理したいということだと思います。でもその個人間のトラブル、という風に思っているものは、往々にして社会の構造とまさしく密接しています。それは、ジェンダーやセクシュアリティだけでなく、人種や民族、障がいが、社会の構造の中におけるいじめやハラスメント、暴力につながっているとの認識があれば、まず最初に、テクニカルに大学が責任をどこまで負えるのか、(他にも損害賠償に対して金銭的な部分での補償をどこまでできるのかという議論はもちろんあるとは思いますが)そういった考え方につながってくると思います。本当に問題を認識しているのかな、と指摘せざるを得ません。
 アウティングというものの規制は一定程度必要だと思っています。国立市の条例も然り、もちろん一橋大学の中でのガイドラインというのももちろん重要になってきます。アウティングというものが今これだけ危険な行為なんだということを認知してもらうためには、規制やルールを明記することが重要になってきます。
 当該事件以降、アウティングをしてはいけないと語れる機会も増えましたが、あくまでも問題はその裏にある性的マイノリティへの差別や偏見が根強く残っている社会の構造であり、そこを直さない限りアウティングというものの被害の深刻度というのは是正されません。そういう意味で言うと、アウティングは過渡的に規制されたり語られるべきものだと思います。最終的なゴールを見据えた上で、現実的に危険性のあるこの問題にどう対処できるか、という視点に立ってほしいと思います。アウティングは規制する必要はあるけれども、そこで全ての問題が解決するわけではないのです。

以前、ある学生から「友人との会話でそれが不法行為かなどいちいち考えません」と言われたことがあります。対話の可能性はありますか?

 その学生さんの「わざわざ不法行為かどうかなんて考えてないよ」という意見はすごく示唆的なコメントだと思っています。なぜか。例えばその情報が、相手の住所や相手のいわゆる「プライバシー」として想起されやすい問題だった場合には、不法行為かどうかと考える前に瞬間的に「言ってはいけない」って思うでしょう。勝手に相手の住所をSNSで晒して良いのかどうかといったらそれはやはり良くないと思う。しかしそれが性的指向や性自認に関してとなると言ってもいい、別にそれは問題がない、という風に思ってしまってしまいます。その思ってしまっている状況こそが結局問題視できていない、ということです。だから、アウティングの規制が必要なんだということだと思います。
 結局、他にも様々なプライバシーの侵害が起きたら具体的に罪に問われる可能性があるわけです。そこは「確かに勝手に言っちゃいけない情報って他にも沢山あるよね」っていうふうに建設的な議論が進む可能性に期待します。
 しかし、そもそも性的マイノリティに関する問題を知らない、何なら差別的な認識を持っている人からすると、突然よく分からない「アウティング」っていう言葉が出てきて、それが規制をされると何となく自分の行動は制限されるじゃないか、不安を感じる可能性はすごくありありと想像できると思います。対応の仕方はすごく難しい一方で、ベーシックな対応が求められるのではないかと思います。まずは基本的な性のあり方に関する知識をしっかり身につけてもらうこと。同時に、よく分からない性的マイノリティやLGBTQという人たちの「イメージの話」ではなく、本当に隣にいる人だと、リアルに当事者と実際に喋る、会って話すということが行われない限り、そのあたりの認識は中々改められないんだろうなと思います。

事件を知った時はどう感じましたか?

 当時記事を読んだリアルな記憶が、例えばこの場所で読んで…というのは曖昧ですが、血の気が引くというか、肌の感覚とか温度が下がるみたいな感覚があったことはすごく覚えています。それだけ衝撃を受けたんだと思うんですよね。
 本にも書いたんですけど、私自身がアウティング被害をもちろん受けたこともあるし、むしろやってしまったこともある。それは当事者間でのアウティングもあるよね、という話でもあるんですが、アウティングという問題自体は自分も認識していたし、そのリスクもコミュニティの中では共有されていました。「やっぱアウティングって問題だよね」と思ってはいたけれど、それが本当にスルっと命の問題につながる可能性がある。分かっているつもりでしたが、それが実際に起こる、そしてそれが報じられて如実にその真意が伝わってくることで、衝撃を受けていたのだと思います。

「生活の言葉」だったアウティングが人の命を奪いかねないものになった?

 そうですね。大学時代はLGBTQのサークルに入っていて、例えば外で(今はコロナだから無いだろうけど)飲み会をやろう、となったら絶対に個室を取るし、大学の中でランチ会をしようと思ったときも教室を取ります。しかし、その教室のドアの前に貼る利用届の名前は偽って、嘘のサークル名を書いたり、当事者たちは自衛しながらリスクへッジ、情報のコントロールというものを意識しながらやっています。
 神谷さんのいう「生活の言葉」という意味でも、自分自身も日常生活で使う言葉としての「アウティング」というものには違和感が無かったんですよね。その暴露の危険性も意識していた一方で、どこかで「アウティングはされても仕方ないものだ」という意識もありました。「カミングアウトして受け入れてもらってるし」と。つまるところ自分自身も差別や偏見を内面化しているということなんですけど、結局、暴露されても仕方ない、好奇心的にそういうことを知られても仕方ないという認識もどこかにあって、だからこそ「社会に訴える問題」というまでの認識は持っていなかった、というのが正直なところでした。
 しかし、やはりそうではなかった。明らかにそこには差別的な社会の構造があって、その中における一つの被害の形として「アウティング」というものがある。「アウティング」という名前が必要になるくらいの被害があるんだというところが、自分自身も認識を改めたところです。

 当該事件のケースを最初知った時に、いろいろな考えが巡る中で、大学に出来たことって本当にたくさんあるんだろうな、ということはキリがないくらい出てきます。それこそ一橋大学の中でジェンダーやセクシュアリティの研究が一定盛んに行われてきたわけなので、そういった人たちとどうして繋げることができなかったんだろうということ。また、LINEグループでの暴露の際、LINEグループの他のメンバーはどういうことができたのか、とか、もしくはそのメンバーの近くにはどういう人がいたんだろうか、とか。色々な相談先やリソースがたくさんあったはずだけれど、それが繋がらなかった。その点においても、大学の側に一定の責任はあるのではないかとはずっと思っています。
 ただ、事件が起きた2015年前後というのは、性的マイノリティに関するある種の「ブーム」的な時期がはじまった頃でもあります。あの頃自分自身振り返ってみると、もちろん性的マイノリティに関する社会運動は以前から展開されてきたけれど、特にブーム的な語りがされる中で、性的マイノリティをポジティブに理解する動きもあったけれど、一方で、いわゆるヘイト的な言説も見えるようにもなっていた時期でした。例えば悪意の無いものでも、研修・講演会にてカミングアウトをして自分自身の話をし始めると、それが差別的な言葉ではないと思っている人たちからの非常に悪質な発言が「質問」として出てきたりとか、そういうことがしょっちゅう起こる。それは今でも起こるんですけど、当時はいわゆる研修とかの場でも当然のように出てくるような時代でもありました。そういうような社会的な状況の中であの事件が起きたというのは、リアルに感じてしまいます。だからこそ大学がその命を守らなければならなかったんだ、そのためにリソースをフル活用しなければならなかったんだ、できたことはたくさんあったはずだ、というのは今でも意見として変わらないですね。

アウティングにおいて、「告白・カムアウトした側のLGBTQが悪い」という意見がありますね?

 今でも当該事件に対する言説の中には「告白をした側の責任があるんじゃないか」とか、「勝手に秘密を共有している訳だから、それを勝手に言ってはならないと強制するのはどうなんだ」、「アウティングして欲しくないんだったら、最初からカミングアウトすべきではない」、そういう意見は少なくはないですよね。その相手に対する反論の1つは、前提となる社会の構造自体を不可視化しているという点。実際にアウティングされた場合の被害や、命の問題に繋がる可能性、被害に繋がってしまう責任は誰・どこにあるのか、というところを不問にしているので、非常に問題だということを、まず前提として言いたいです。ただし、実際にカミングアウトを受けた人が、例えば告白をされて誰かに相談したいと思った、悩んだということは実際にあるし、それを「アウティングに繋がるから相談してはいけません」と言うのはおかしい。だから、「アウティング」においては、情報のコントロールの話と、告白の場合であれば個人間の恋愛に関する話というのは切り分けるべき、だといえます
 例えばカミングアウトを受けた人がアウティングを懸念して相談ができないということであれば、どうやったらアウティングを防ぎながら相談ができるか、という体制の構築や、正しい知識の提供にも建設的な議論や方法があるし、それはむしろ伝えたいことでもある。まさに本の中でもカミングアウトされた側が悩んだ場合、いわゆる「アウティングを規制するのであればそもそもカミングアウトすべきではない」という考え方への応答をいくつか盛り込んで書いたところがあります。

確かに、SOGIE相談窓口は「LGBTQのためのもの」という印象がありますね?

 例えばまさにカミングアウトを受けた人がアウティングの問題性や危険性を認識しているからこそ、悩んでいるけどこの事を誰かに相談していいのかわからないとか、などの懸念の声は実際聞こえてきます。
 むしろ積極的に相談してほしいです。ただ、その相談のやり方に工夫ができるということをもっと伝えていきたいと思います。身近なコミュニティの中で告白をされて、それを相談したいけれどアウティングに繋がるのではないか、ということを懸念していれば、守秘義務のある相談窓口を利用して電話をかけてみるとか、LINE相談もあるので利用する方法もあると思います。もちろん身近な関係であっても、その本人の情報を隠したまま相談をすることはできるはずです。いわゆる「身近な範囲」でもそこには色んなグラデーションがあります。例えばバイト先の知り合いとか、明らかに大学の人とのつながりがないような関係性の中での友人や地元の友達、そういった相談する先の人間関係というのは、必ずしも全部が全部繋がっているわけではありません。個人情報に注意しながら相談ができる場面はあると思います。
 ただ、相手の情報を勝手に暴露してはいけないことが基本で、本人への確認が大原則として必要です。例えばカミングアウトを受けた人に対してどこまで伝えていいのかとかを聞いてほしいとよく言いますが、時と場合によってはそういったことが聞きづらかったりします。相談するときは個人情報に注意しながらも、積極的に相談してほしいと思います。

LGBTQもシスジェンダー・異性愛者も「悩んだら窓口で相談」というのはひとつの解決策ですね?

 「LGBT」という言葉が銘打たれた相談窓口であっても、その相談をしている人が必ずしも当事者かといったらそんなことは全くありません。自分の性のあり方に悩んでいる人は、自分はむしろマジョリティだと思っていたけど違和感があり電話した、という人もだろうし、例えば友人や家族に当事者がいて、その悩みに対してどう対応すればいいのかわからない、という人も窓口を使うことは、むしろとても重要なリソースの使い方だと思います
 性的マイノリティに関する相談窓口は、当事者はもちろん、身近にいる人や問題について関心がある人も利用して良いものです。本当は相談窓口において、LGBTQなどの性的マイノリティというアイデンティティに関する名前を銘打つよりは、もっと広い名前であると、そういった効果があるのかもしれません。しかし、逆にそうしすぎると当事者がなかなかそこにリーチできなくなる。本当に悩んでどうすればいいんだろうって思って相談したいという当事者に届かなくなってしまう可能性もあります。そこのバランスは難しいですね。しかし、テクニカルな工夫はできます。例えば、相談してみたいと思って検索をした人がページに辿り着いた時に、当事者でもそうではない人も相談はできると一言あるかどうか。そういった工夫はできると思います。

行政やNPOに相談してたらLINEグループでのアウティングには至ってなかった?

 まさに基本的な情報の欠如というのは大きな要因としてあったのではないかと思います。実際に、その事件の報道等を見ていても、最初に告白をした時の対応というのはむしろ好感を持てるような対応だったと思います。

 「LGBTって言葉があるよ」と提示していたり、付き合うことはできないけど性的指向に関して何か価値判断をしたりということもありませんでした。むしろ望ましいぐらいな反応だったと思います。しかし、その先。暴露することの危険性というところまでの認識はできておらず、そこには情報の欠如があったのではないかと思っています。相談をしたい場合にどこに相談をすれば良かったのかという情報だったり、アウティングというものの危険性と、その対策の仕方などの情報が欠如していたと言えると思います。

得てしてアウティングというものは簡単に加担してしまう危険性がありますね?

 そこはまさに重要なポイントだと思っています。この本の中でも頻繁に「良かれと思って」、「大したことない」などのフレーズを挙げています。性的マイノリティに関してポジティブな認識をもっているからこそ、世の中の差別や偏見に対して鮮明度がちょっと低くなってしまいがちです。
 自分は別にいいと思っているからこそ、差別的な行動をとってしまう人がいます。良かれと思って、「別に性のあり方なんて色々あるじゃん、大したことない」って決めつけて、ポジティブに伝えたり勝手に暴露してしまう。その時、自分の意図していないところで当事者は本当に不利益を被ります。実際にいじめやハラスメントにつながったり、場合によっては会社で左遷させられたりしまう危険性だったり、命(の危険)につながってしまったり。本当に様々なリスクをはらんでいるんだっていうことの認識が(暴露した人は)できていなかったりする。この「良かれと思って」とう認識が、実はアウティングにつながりかねないとのところをぜひ認識してもらえると嬉しいです。

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(取材:本田恒平 一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程、一橋LGBTQ+ Bridge Network代表)

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松岡宗嗣〈まつおか・そうし〉
1994年愛知県名古屋市生まれ。明治大学政治経済学部卒。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する一般社団法人fair代表理事。ゲイであることをオープンにしながら、HuffPostや現代ビジネス、Yahoo!ニュース等で多様なジェンダー・セクシュアリティに関する記事を執筆。教育機関や企業、自治体等での研修・講演実績多数。2020年7月、LGBT法連合会・神谷悠一事務局長との共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)を出版。近著に『「テレビは見ない」というけれど--エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』(青弓社)、『子どもを育てられるなんて思わなかった--LGBTQと「伝統的な家族」のこれから』(山川出版社)。本作が初の単著となる。


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