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世界遺産フマユーン廟 ~ムガル帝国第二代皇帝の軌跡~

インドのデリーに「フマユーン廟」があります。
有名な「タージ・マハル」にも影響を
与えたと言われる墓廟です。
フマユーン、という人のお墓!

…彼は、どういう人なのでしょう?

フマユーン(フマーユーンとも)は、
北インドのムガル帝国の第二代皇帝です。

「ムガル帝国…。
世界史で少し習ったような気がする。
でも、フマユーンなんて
あんまり出てこなかったような」

そうですね。
ムガル帝国は1526年から1858年、
主に北インドで約三百年ほど栄えた帝国です。
日本史で言えば、戦国時代~江戸時代。
この帝国について教科書で
よく書かれる人たちと言えば、

◆初代皇帝バーブル
◆第三代皇帝アクバル
◆第四代皇帝ジャハーンギール
◆第六代皇帝アウラングゼーブ

このあたりです。

初代バーブルはフマユーンの父親で、
ティムール朝の王族でもあります。
ムガル帝国の創始者。さらにさかのぼれば、
モンゴルの英雄、チンギスハンの子孫。
ムガル、とは、モンゴル、が
なまった言葉とも言われます。

第三代アクバルはフマユーンの子どもで
「アクバル大帝」とも呼ばれる名君!
北インドのほとんどを平定して、
ムガル帝国繁栄の基礎を築きました。

第四代ジャハーンギールはアクバルの子ども。
帝国の最盛期の皇帝です。
その妃、ムムターズ・マハルのために
「タージ・マハル」を建設した。

第六代アウラングゼーブ
そのジャハーンギールの子どもですが、
兄から帝位を実力で奪い、兄弟を討伐しました。
デカン高原、南インドまで進撃しますが、
反乱が相次ぎ、彼の死後、帝国は衰えます。

…フマユーンは、彼らの陰に隠れて
いまいち知名度が低いんです。

「まあ、江戸時代の将軍も、
徳川家康、家光、吉宗、慶喜あたりは
有名ですけれども、
他の将軍はそんなに有名では
ないですもんね…」

と、言えばそうなのですが、
実はこの第二代皇帝フマユーン、
波乱万丈な人生を歩んだ人。

本記事では「フマユーン廟」の主である
彼の生涯を紹介します。

彼は1508年~1556年の人です。
日本史で言えば戦国時代、
毛利元就(1497~1571年)と同じ時代。

彼の父親はバーブル。
ティムール朝サマルカンド政権の君主。
めちゃめちゃ合戦に強く、
ムガル帝国を作り上げた英雄!

…ただ、その息子であるフマユーンは
あまり合戦が得意な豪傑ではなかった。
どっちかというと文化系。
体育会系では、ない。

各国の言葉を操り、文化にも造詣が深かった。
酒好きで、宴会好き。
重要な決定など必要な行動は後回しにして
享楽にふけるような一面もあった。
ものすごく人間臭い感じの人でした。

そんな人が、英雄バーブルの後を受け継いで
第二代皇帝になったんですよ。
1530年、彼が22歳の頃。

そのライバルに「シェール・ハーン」
という人がいました。
北インドの東部のあたり。
自称「真のスルタン」「諸王の王」!
「トラの王」とも呼ばれる凄い人。
彼が1531年、フマユーンに対して
反旗をひるがえした。
「あんな軟弱な奴に仕えていられるか!」
といったところですね。

フマユーン、反乱を起こした
シェール・ハーンを攻めて、勝利します。
ところがフマユーン、勝ったことに満足して
彼を処罰しなかったんです。

…これが後に大きな災いとなった。

周りはまだまだ敵がたくさんいます。
周囲との戦いに追われるうちに、
このシェール・ハーンが勢力を盛り返す。
1200頭もの戦象部隊を率いて、
フマユーンに復讐戦を挑んでくる!

1540年、両者との間に決着がつきます。
なんとフマユーン、惨敗…!
軍勢の大部分がガンジス河で溺れ死に、
フマユーンは命からがら川を渡って逃げる。

帝国は、滅亡しました。

シェール・ハーンは
「シェール・シャー」と名乗ります。
まさに「逆襲のシャー」とも言えるでしょう。

「…え? ちょ、待って下さいよ。
ムガル帝国、滅亡したんですか?
その後、栄えるんじゃなかったのでは?」

はい、実は第二代皇帝フマユーンの時に、
一回滅亡しているんです。
彼はインド北部から追い出され、
西のシンド(今のパキスタンのあたり)で
亡命生活を送ることになります。

そのさなか、ハミーダという
女性と結婚し、妃に迎えました。
ハミーダは当時、14歳くらい。
フマユーンは当時、33歳くらい。
この二人の間に生まれたのが、
後に第三代皇帝となるアクバルです。

結婚もしたので、何とか
帝国を再建しようとしますが、
なかなかうまくいかない…。

逆に、シンドから逃げ出す破目に陥り、
さらに西、イラン(ペルシャ)の
サファヴィー朝というところに行きます。
妃のハミーダはペルシャ人でした。
妻の実家の方面に行った感じですね。

(ちなみに息子のアクバルはこの際、
逃亡の身の安全を保証するために
カンダハルの伯父さんのところに
人質に出されています。

ちょっとかわいそう…)

さて、このようにトホホなところがある
フマユーンでしたが、
大きな幸運が転がり込んできます。

1545年、強敵シェール・シャーが
大砲の暴発で事故死するんです。
「すわ、好機!」と決断したフマユーン、
ペルシャ兵を中心として軍勢を整えて、
北インド方面へと進撃していきます。

英雄シェール・シャーの子どもたちは、
仲間割れを起こしていました。
それに乗じたフマユーン、
1555年、ついにデリーに凱旋するのです。

1540年に惨敗、亡命して、
じつに十五年近くの歳月が流れていました。
こうして無事に彼は
ムガル帝国を再興することができたのでした。

最後に、まとめます。

本記事ではフマユーン廟の主、
フマユーンの生涯を紹介しました。

…え、彼の最後はどうなったのか?ですか?

デリーを奪還した翌年、1556年、
彼は図書館の屋上で
占星術師と議論したあと、
階段で降りようとしました。

そのとき、近くのモスクから
礼拝の時刻を告げる音が聞こえた。

彼はイスラム教徒だったので
「礼拝に行かなきゃ」と焦ってしまった。
その時にうっかり
衣服の裾を踏んでしまったんでしょうね…。
彼は階段から転げ落ちて、
頭を打って亡くなってしまったのです。


不慮の事故死を遂げた彼の後を継いだのは、
第三代皇帝アクバル。当時13歳。
彼は父親の残した敵たちを滅ぼして、
後に「大帝」と呼ばれることになります。

そのアクバル大帝の治世において、
亡き夫フマユーンのために
妃だったハミーダたちが建てたとされるのが
「フマユーン廟」なのです。
建造にはペルシャ出身の建築家が
活躍した、とも言われています。

インドのデリーにありながら、
「イラン(ペルシャ)・イスラム建築の
精華のひとつ」
とも言われるフマユーン廟は、
こうして完成したのでした。

私もぜひ、いつかは実物を見てみたいと思います。

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