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前田慶次を越える「倫魁不羈」(りんかいふき)
あまりに凄すぎて、誰も縛れない!
そんな『三国志の呂布』的な豪傑
戦国時代の日本にいました。いたんですよ。
フィクションではなく、実在の人物。

水野勝成(みずのかつなり)という武将です。

徳川家康のいとこ。
ただ、家康が将の中の将、
「天下人」になったのに対し、
この人は「一武将」として
最強を目指した感じがあります。

1564年に生まれる。1651年に死去した。

戦国時代の最末期から
江戸時代初期に活躍した人。
知名度はそこまで高くはありませんが、
彼のキャリアを追っていくと
大河ドラマの主人公になっても
良いぐらいの波瀾万丈
なんです。

本記事では、彼の事績を紹介します。

彼は1564年に、
三河国(愛知県東部)で生まれました。
父親は、水野忠重。

この父親の実の姉は「於大の方」といって
徳川家康の母親です。
父親のきょうだいが、家康の母親。
つまり、いとこ同士です。

とはいえ、家康は1543年の生まれで、
水野勝成は家康より約20歳ほども年下。
年齢・世代が、かなり違う。
家康に比べて、かなり若い。

事実、勝成が生まれた1564年頃は、
徳川家康はすでに今川家と手を切り、
織田信長と同盟を結んで
三河国平定に全力を上げていた頃です。
「三河一向一揆」も起こってしまい、
ものすごく苦労していた頃。

その頃、勝成が生まれた。

じきに元服した勝成は、まさに
「荒武者」という感じの豪傑でして、
各地を転戦していきます。
敵は周りの武田、北条など。

◆1579年 高天神城の戦いで初陣
◆1582年 武田家を滅亡させる
同年、本能寺の変

◆北条家との戦いで先輩の鳥居元忠と喧嘩、
『今日から俺は、自分だけで戦う!』
と宣言して敵陣に突入、武勇を誇る

…戦うために生まれてきたような豪傑。
どことなく、呂布みがあります。

◆1584年 小牧・長久手の戦い
眼病で兜をかぶってないところを
父親に叱責されて激昂、
敵陣に突入して一番首を獲る

父親とは折り合いが悪かった、
と言われています。
ちょうど彼は結膜炎を患っており、
痛いので兜をかぶっていなかった。

そこを父親にとがめられて怒り出す。
「父上ながらあまりのお言葉!
兜がないことで頭を割られても、
それは時の運。
一番首を取るか、自分が取られるか
見ているがよい!」と叫んで
敵陣に突入していったそうです。

◆父親に勘当されて、徳川家を出奔

…そういういざこざが積み重なり、
ついには自分の評判を貶めたとして
父親の家臣を斬り殺してしまう。
怒った父親は勝成のことを勘当。
「奉公構」(ほうこうがまえ)にします。
他家へ仕官するのを妨害するんです。

そのため、しばらく京都で放浪していた。
後に、九州に向かいます。

◆各地の大名のもとを転々とする
仙石秀久、佐々成政、黒田官兵衛、
小西行長、立花宗茂など
主に九州で活躍していく

◆この頃に秀吉をキレさせて
刺客に狙われた(らしい)
詳細は書き残してないので不明

(かなりヤバいことをしでかしたのか、
記録に残っていません。
何をやったんだ、勝成…)

◆1598年 秀吉が死去
家康の元に戻って、父と和解

◆1600年 父親が暗殺される
水野家の跡目を相続
関ヶ原の戦いには参加せず、
石田三成が出撃した後の
大垣城を攻めて落とす

…この人、残念ながら
「関ヶ原の戦い」には参加していない。
あまり言うことを聞かないから
勝手に戦端を開かれたらマズいと思って
家康が自重させたのかもしれない。

もし参加して先陣などを担っていたら、
獅子奮迅の働きをしたでしょう。
(戦死していたかもしれませんが…)

◆1601年 三河刈谷の藩主になる
『日向守』に任ぜられる
「逆賊」明智光秀の日向守だったので
みんなはなりたがらなかったが、
彼は気にすることなく受諾、
『鬼日向』とあだ名される

◆1608年 宮本武蔵から
剣術の奥義を伝えられる

◆1614年 大坂の陣で大暴れ

大坂夏の陣では
「大将であるから昔のように自ら
先頭に立って戦ってはならん!」
と、徳川家康から事前に注意されています。
勝成、結果的に、ガン無視。
後藤又兵衛こと後藤基次の軍勢に突撃して
自ら一番槍を上げたりしました。
なお、後藤又兵衛とは
黒田官兵衛の下にいた頃の同僚です。

◆1615年 大和国(奈良)郡山藩主に転封

◆1619年 福島正則が改易された後に
広島の福山藩主に転封

大坂の陣での功績が認められて、幕府からは
重要な地点の藩主に任じられます。
もう少し大大名になれると思っていましたが、
指示をガン無視された家康は
かなり怒っていたそうです。
二代将軍の秀忠が
「あとで十万石あげるから」
と、勝成をなだめた
とか…。

◆1638年 島原・天草一揆に
鎮圧軍の対象の一人として参加

…この頃、75歳くらいですよ?!
戦歴を評価され、攻城軍に加わった。
子どもと孫も連れていったそうです。

◆1651年 福山城内で死去

88歳という高齢で
生涯をまっとうした水野勝成。

家康が大坂の陣で
「天下泰平の世を確立した」とするなら、
そのいとこの勝成は
島原・天草一揆まで戦って
「天下泰平の世を固めた」
のです。

1650年、87歳の勝成は
自ら鉄砲を撃ってみせて
見事に的に命中させた、と
言われています。
死ぬまで元気、死ぬまで豪傑…!

しかし福山藩では内政に力を入れ、
隣の岡山の池田光政からは
『良将の中の良将』
評されるほどの名君になったそうです。
(このあたりは呂布とは違いますね)

…なぜそんなに民の機微がわかる
善政ができたのか?
人に聞かれた勝成は、
このように答えたそうです。

◆「下の情を知る事は
これ虚無僧たりし故なり」
(庶民の気持ちがわかるのは、
自分も貧しい虚無僧だったからだよ)

戦場では誰にもしばられない、
手のつけられない豪傑。
天下人秀吉・家康にもビビらない。
各地を放浪した。
宮本武蔵から剣術の奥義も学んだ。
戦国の酸いも甘いも嚙み分けて、
内政においてはよく家臣を指導した…。

水野勝成。
戦国最強のフリーターにして、
「鬼日向」ことラストサムライ!


ただ、これだけの事績がありながら、
家康の若い頃の戦いや関ヶ原の戦いには
参加していないために、
知名度はいま一つ広がっていない。

ぜひ有名になってほしい
戦国武将の一人なのです。

幕末の館林藩士、岡谷繁実が作成した
「名将言行録」という本で、彼は

◆倫魁不羈(りんかいふき)

と称されています。
あまりに凄すぎて、誰も縛れない…!

読者の皆様は、いかがでしょう。

ここぞ、という時には
色んなしがらみに縛られずに
自分の覚悟と決断で行動できますか?

そう言う私も、よく縛られてしまいます。
勝成の生涯を参考にして
ここぞの時には行動しようと思いました。

※興味のある方は、大塚卓嗣さんの小説もぜひ。

※水野家の末裔、水野直の生涯もぜひ。

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