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貴族院の怪物 ~水野直(みずのなおし)~

水野家は、江戸時代の名家です。

何しろ徳川家康の母方の実家なのです。
家康の母親「於大の方」は
水野家から、松平家に嫁いできた。
織田家の尾張と、徳川家の三河。
その間の地域で勢力を伸ばした家。

織田信長と徳川(松平)家康の
同盟を仲立ちしたのは、
水野家の「水野信元」という男でした。

(大河ドラマ『どうする家康』では
寺島進さんが好演していましたね)

織田家と今川家、尾張と遠江との間、三河で
松平家(徳川家)と婚姻を結ぶことによって
勢力を伸ばし、生き残りを図った家…。

…ただ、織田家と徳川家が
成長にするにつれて、
水野家も成長していきます。
1575年当時の石高は、二十四万国でした。

二つの勢力の間にいる仲介役が
成長すると、疎んじられるものです。
仲介役だった水野信元は、
次第に信長と家康に警戒されていきます。

1576年、信長に武田家との内通を疑われて、
甥の家康によって誅殺される…。
(なお1579年には家康の妻と子どもも
武田家との内通を疑われて倒されています。
当時、相当ピリピリしていたんでしょう)

こうして、水野家は
いったん断絶となりました。

…しかし、1580年、水野一族は信長から
再興を許されて、信元の弟である
「水野忠重」が後を継ぎます。
その忠重が1600年に暗殺されると、
長男の豪傑「水野勝成」が後を継ぐ。

水野勝成は、武勇内政に優れた武将でした。

江戸時代には備後福山藩十万石を治めた。
その子孫が断絶した後も、
名門を残そうとする幕府から、一族が
下総結城藩一万八千石に封じられる。

また、他のきょうだいの一族も分家筋として
信濃松本・駿河沼津、安房北条・上総鶴牧、
紀州新宮、三河岡崎・肥前唐津など、
全国各地に根を張ることになりました。

…何しろ、徳川家康の母方の親戚筋。
江戸時代には名門、貴族、なのです。
有名な「天保の改革」の「水野忠邦」も、
この一族、肥前唐津藩の藩主の子ども。

前置きが長くなりましたが要するに、
水野一族は江戸時代では偉かったのです。

さて、明治時代になりますと、
各藩の藩主は「華族」になります。
華族の中で政治を志す人は、
「貴族院」と呼ばれる議会で議員となる。
現在の「参議院」の前身ですね。

この貴族院の中で辣腕をふるって、
「貴族院の怪物」と呼ばれた議員がいた。
その名は、水野直(みずのなおし)
江戸時代から続く名門・水野家の一員…。

本記事では、彼の事績を紹介します。

1879年、明治十二年に生まれました。
1929年、昭和四年に死去する。

生まれは旧紀伊新宮藩の藩主、
水野忠幹の五男でした。
紀伊新宮藩は、徳川御三家の一つ
紀伊藩の家老の家です。

1884年、五歳の頃には
水野宗家17代である水野忠愛の養子となり、
水野宗家の18代になります。
1903年には、東京帝国大学法科大学を卒業。

1904年、第三回伯子男爵議員選挙で
初当選しまして、貴族院議員となりました。

…さて、貴族院、と言えば、皆様、
どのようなイメージがありますでしょうか?

「うーん、日本史でちょっとだけ
出てきたような…。
戦前に『貴族』『華族』の
お坊ちゃまたちが議会を作って、
好き放題に議論していた。
でも、あまり現実の政治には
関わっていなかったんでは?
戦後に解散させられて『参議院』になった…」

それが、違うんです。

確かに、純然たる民からの選挙で選ばれる
『衆議院』のほうが、政治には大いに関わる。
『大正デモクラシー』とかありましたよね。
原敬とか、普通選挙法とか…。

しかし、貴族院は陰に陽に
明治~戦前の日本を動かしてきた
重要な議会だった。


貴族院の議員は、三種類に分かれていました。

◆皇族議員
◆華族議員
◆勅任議員

解散はなく、任期は七年の者と
終身任期の者に分かれます。
皇族議員、華族議員の中の公爵と侯爵、
勅任議員のうちの勅撰議員は終身です。

「大日本帝国憲法」制定に尽力した
初代内閣総理大臣、伊藤博文は
「内閣制度」をつくった人でもある。
つまり、単独の個人が
「独裁政治」を行うのではなく、
「グループで政治を行う」ことを
取り入れた人といってもいい。

彼が、天皇を中心とした君主制を
維持するために貴族院をつくった。

いわば、衆議院の「民主主義」に対して、
貴族院は「君主主義」でもあります。
ですので、あまりにも衆議院のほうで
民主主義的な取り決めをした場合は、
貴族院から横槍が入ることが多かった。

そもそも戦前・戦中の内閣総理大臣で
衆議院議員出身の人は三人しかいないんです。
原敬、濱口雄幸、犬養毅。
対して、貴族院出身の総理はたくさん。
伊藤博文も貴族院に入っていました。

…この世界に、水野直は飛び込んだ。

華族のお殿様出身が多いので、
貴族院は基本的に「一人一党」です。
しかし水野、研究会というグループに
入り込んで、そこで権勢をふるっていく。

なんと「大正デモクラシー」の
原敬に接近していくんですよ。

その後、清浦圭吾という
貴族院議員の首相擁立に携わりますが、
1914年、組閣に失敗。

(「うなぎの香りをかがされただけで
うなぎ屋に入れなかった」ということで
幻の内閣、『鰻香内閣』とも呼ばれます)

しかし、臥薪嘗胆、再び清浦を担ぎ、
1923年、ついに清浦内閣成立!

その影で組閣参謀として力を
奮ったのが水野直
なのです。

…ただ、好事魔多し、と言いますか、
かなり強引に清浦内閣をつくりあげたので、
『第二次護憲運動』が起きてしまいます。
何と清浦内閣、半年ほどで倒される!

後を継いだのは、加藤高明という人です。
いわゆる政党内閣。

しかし水野直、貴族院の怪物と呼ばれた男、
ただではやられない。
清浦を見限って、今度は加藤高明に接近…!

「貴族院、研究会に反対者の多い
『普通選挙法』成立に協力するから、
研究会にポストをよこせ!」

そう加藤と交渉したのです。
これがうまくいった。

衆議院と貴族院。
対立しがちな両院の間を仲立ちして、
「普通選挙制」を実現させた男。

それが水野直なのです。
どこか、織田信長と徳川家康の仲立ちを
つとめた、ご先祖の水野信元に似ている…。

最後にまとめます。

本記事では知られざる
普通選挙法成立の立役者、
水野直について書いてみました。

彼はその後、どうなったのか?

陸軍政務次官という要職につきますが、
1929年(昭和四年)、50歳で急死します。
その二年後、1931年に満州事変が勃発…。

貴族院でありながら大正デモクラシーの
政局の一端を担った水野は、
もういませんでした。

二つの勢力の間を巧みに泳ぎ、調整し、
落としどころを探る海千山千の政治家…。
往々にして、そのような存在が
キャスティングボートを握ることがあります。

読者の皆様の近くには、
そのような「策士」「怪物」
「陰の実力者」
はいませんか?

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