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手塚治虫:クリエイター・バーサーカー伝説

「漫画の神様」こと手塚治虫
1928~1989。
彼は、彼自身も漫画のキャラクターに
なれそうなほどの、破天荒で異才を持つ
漫画家だった、と言われている。

彼が医学博士でもあることは、
『ブラック・ジャック』を読んだことが
ある人なら知っているかもしれない。
医者にして漫画家という人は、
なかなかいないだろう。

さらに彼は
アニメーター(アニメ監督)でもある。
『虫プロダクション』という
アニメ製作会社まで作っているのだ。
ただの漫画家の範疇には
収まりきれない存在なのである。

一方、あまり知られていないが、
戦前でも漫画は盛んに作られていた。
「鳥獣戯画」までさかのぼれとは言わないが、
例えば、田河水泡の『のらくろ』は
昭和初期の子供漫画を代表する作品だった。
新聞では政治家を風刺する「風刺画」が
たくさん描かれていた。

にもかかわらず彼が、
唯一絶対の「漫画の神様」「開拓者」
のように言われるのは、なぜか?
それは、「ストーリー漫画」の手法を
開拓したから
であろう。

戦後間もなくの1946年、手塚は
酒井七馬から「ストーリー漫画」の
合作を持ちかけられる。
構成を酒井が作り、手塚が自由に描く。
映画的な構成とスピーディーな展開を持つ
長編『新寶島』が出来上がった。
1947年出版、当時としては異例のベストセラー。
ここから、戦後の漫画の旗手としての
手塚の進撃が始まっていった。

とはいえ、彼はずっと
順風満帆だったわけでは、ない。

『鉄腕アトム』は50年代に大人気、
60年代には自身の手でアニメ化したが、
その妥協を許さない性格は
周りのアニメーターたちを
薄給で過酷な労働へと追いやったという。
ほぼ完成までこぎつけた作品を
「リテイク」(作り直し)に
してしまうことも、よくあったそうだ。

もっとも、手塚に言わせれば、
「アニメの制作開始時は、
スポンサーも安い値段しか出さなかった。
アトムが当たったからこそ、
徐々に制作費も高く取れるようになったんだ!」
だそうである。
質の点で妥協をしていたら、
現在の日本のアニメの隆盛は無かっただろう。

また、「劇画」との戦いもあった。
デフォルメされた手塚のキャラとは対照的な
リアルな描写の劇画が、大衆に受けていた。
彼自身、階段から転げ落ちたり、
劇画作家の集会に行ってみたり、
ノイローゼになり精神鑑定を受けてみたりと、
まさに七転八倒の苦しみを味わったという。
果ては、劇画調の漫画を実際に描いてみて
徐々に劇画の方法論を
自分の作品にも取り込んでいったそうだ。

そんな手塚も、70年代に入ると、
「昔の人気作家」の一人とみなされていた。
漫画界は彼の活躍もあって、
大勢の新しい才能群が出てきていたからだ。

折り悪く、1973年、虫プロ倒産。
莫大な借金を背負ってしまう。
彼の最後を看取るために、
『週刊少年チャンピオン』で始まったのが
『ブラック・ジャック』だった。

…この作品によって、彼は不死鳥、
まさに火の鳥の如く、復活を果たしていく。

ただ、手塚が描かないジャンルもあった。
それは「野球漫画」である。

チャンピオンでは(最初は柔道漫画だが)
水島新司が『ドカベン』を連載していた。
おそらくだが、手塚は野球漫画では
水島に勝てないことを知っていたに違いない。
漫画狂は漫画狂を知る、と言ったところだ
(水島新司はむしろ「野球狂」だったが)。

手塚は、異様に負けず嫌いであり、
才能に嫉妬し、ライバル視する
傾向が強かった
、という。
ただそれは、新しい才能が世に現れた時、
「これの何が面白いのだろうか?」と
必死にとことん探り、
時には自分の作風にまで取り込むような、
一種、熱狂的な成長欲と探究心の
あらわれだったのではないだろうか?

偉大なるクリエイター(創造者)にて
漫画に対するバーサーカー(狂戦士)。
石ノ森章太郎や藤子不二雄をはじめ、
同年代、次世代のクリエイターに対する
影響力は、群を抜いている。
そんな「漫画の神様」手塚治虫の
ゆるぎない功績と影響は、
今後も長く語り継がれることだろう。

◆彼の生涯をもっと知りたい方は、
手塚治虫を「追跡」していった漫画家を
主人公にして描いた漫画、
コージィ城倉さんの『チェイサー』という
漫画をおすすめします↓

手塚治虫を描いた漫画では、
べた褒め絶賛するものも多いのですが、

この『チェイサー』は彼をライバル視し
徹底的に「追跡」する漫画家が主人公。
手塚治虫を批判しながら、かつ裏では
手塚作品をコレクションするとという、
「愛憎なかば」「賛否両論」的な
主人公が語り手で、面白いです。

合わせて、ぜひ。

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