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桶狭間の戦いで「海道一の弓取り」と呼ばれた
今川義元は、命を失います。

織田信長からすれば、会心の一撃!
今川軍からすれば、痛恨の一撃!
後の徳川家康、松平元康からすれば
まさかの一撃なのでした。

負けるはずの「うつけ」の織田信長。
彼が「窮鼠猫を嚙む」がごとく反撃し、
今川義元を討ち取った…!

「シンジラレナーイ!」という事態です。

1560年。

ここから戦国時代が予想もしない方向に
転がっていきます。

本記事では、桶狭間の戦いの後の
信長と家康の決断と動き
を追ってみましょう。
(この時点では家康は「松平元康」ですが、
わかりにくいので「家康」表記で書きます)

まず、信長から。

普通に考えると、未曽有の国難を打破した、
まさに「奇跡的な勝利」です。
今川の魔手から尾張を守った救世主!
この戦勝の勢いを、どこに向けるか?

北の美濃(岐阜県)には斎藤氏、
西の伊勢(三重県)には北畠氏、
東の三河・遠江・駿河(静岡方面)には
松平(後の徳川家康)と今川氏真がいます。

簡単に領土を広げたいのならば、
やはり、東でしょう。
なぜなら総大将の今川義元が亡くなり、
後を継いだ氏真は実力未知数の若輩者ですから。

家康を取り込み、もしくは滅ぼし、
三河・遠江・駿河まで一気に攻め落とす!
勝利の可能性は、高い。

たぶん、信長の家臣たちも
そう思っていたのでは?
そもそも今川家は、父の
織田信秀の代からの仇敵でもあります。
義元亡き今、まさに攻め込み時!

…ですが、ご存知の通り、信長は
東には向かわなかった。
なぜなら彼には西の京都に上って、
「天下布武」を行う野望があったから。


短期的な利益より、
長期的な戦略を目指した。

そのために今は、京都への道を確保すべく、
北の美濃を取る。これが必要。

しかし美濃の斎藤氏も
決して弱くはありません。

何と信長はこの先「七年」もの歳月をかけて
北の美濃を攻略する道を選ぶ。
本田圭佑さん風に言えば
「ナナネェン?!」という感じです。
(カタールW杯の実況中継風に)

美濃攻略が達成されたのは1567年。
満26歳で義元を破った信長は、
満33歳になっていました。
「人生五十年」の貴重な七年を、
美濃取りに費やす
のです。

…私たちは歴史を知っているから、
これは必要な時間だった、
ということがわかりますけれども、
当時の信長の家臣の気持ちを想像すると、

「…なんで殿はわざわざ難しい北へ向かって、
美濃の攻略を目指すのか?
東に進んで、今川家を滅ぼすほうが
はるかに簡単だろうに…」

と思ったことでしょう。

次に、家康側から考えてみます。

義元が亡くなり、故郷の岡崎城に
戻ってみたはいいものの、

東には、旧主家の今川家。
西は「義元様の仇」信長がいます。
大国に挟まれた小国。

家康も、悩んだと思います。
まさに「どうする家康」状態…。

よく誤解されがちですが、
家康は桶狭間の戦いの後「間髪を入れず」
信長と同盟を結んだわけではないのです。
ちょっと、間がある。

◆桶狭間の戦い:1560年6月
◆信長と同盟(清州同盟):1561~62年頃


この間、織田軍と戦ったりもしている。
『三河後風土記』から引用します(Wikipedia経由)。

(ここから引用)

『桶狭間の合戦後に、
岡崎城に入城した家康の許に、
織田家からの使者として、たびたび、
水野信元、久松定俊の両人が訪問し、
言葉を尽くして、和順を促したという。

しかしながら、家康はなかなか応じない。

討死した義元の仇も報じない
愚将の氏真に従えば
武田・北条にその所領を奪われるは必定。

大身の信長が、小身の家康へ
和順を申し出るは、過分の至りであるとして、
家康は納得し、

永禄四年九月、
和睦整い、双方誓紙を取り替わしたるという。』

(引用終わり)

…ここで、義元の後を継いだ氏真が、
「父の仇を討つぞ! 力を貸してくれ!」と
家康を全面的に支援していたら、
まだわからなかった
んです。
家康は信長と同盟を結ぶことも
なかったかもしれない。
歴史が変わっていた。

しかし氏真はそうしない。
なぜ?

…その理由の一つに、今川家と同盟を結んでいた
武田と北条がピンチだったから、
ということがあります。

実はこの桶狭間の戦いの頃、
北の越後から上杉謙信が、
遠く関東の北条の領土まで攻め寄せて、
小田原城を取り囲んでいたんです。

信玄のライバル、謙信!
武田はその対応に追われていました。
当然、北条も大ピンチ。

氏真は、東の小田原のほうに注目。
西の家康のほうには目もくれません。
「お前に任した」の丸投げ状態。

「…放置プレイかよ!!」

家康、そりゃ、怒ります。
だって、見殺し状態ですから。

そんな状況を背景に、
桶狭間の戦いから約1年後。

家康は東三河の今川家の拠点、
牛久保城(愛知県豊川市)を攻撃。
今川家に反旗を翻して
真に独立することを決めたのでした。
西三河を領土に組み込みます。

氏真は、この家康を見て、
「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと
罵った
、とも言われておりますが、
まあ、家康をケアしなかった氏真の失策ですね…。
(多少、同情的に言えば、
家中をまとめるだけで精一杯だったとは思います)

逆に、信長側から見ればチャンスです。
自分は北に行く。東に進むことはしない。
となれば、東の三河にいる
家康と同盟を結び、背後を守らせたい…。

ということで、1561年頃。
信長と家康の同盟が成立!

信長は北へ、そして京へ。
家康は東へ、今川家・武田家と対峙する。

そういう流れになります。

(家康と信長が清州城で「直接」会って
会談した、というのは今日の研究では
実は無かった、という説が有力だそうですが)

1563年、家康はそれまでの名前の
「元康」を変え、「家康」と名乗ります。
義元の「元」の字を捨てるんです。
戦国大名「家康」の爆誕。
1566年には、松平姓から徳川姓に変えます。

(蛇足ですが、その後の流れは、というと。
1568年、武田氏とともに今川領を分割占領。
しかし後に武田氏とは手切れとなり、
1572年に「三方ヶ原の戦い」で
武田信玄にボコボコにされる…。
徳川家滅亡か…!と言ったところで
信玄が病死、九死に一生を得るのでした。
その後の1575年に、長篠の戦い、という流れ)

最後に、まとめます。

まさに家康の一生は
『どうする家康』の連続。

その大いなる決断の一つ、
「義元が死んだあと、
今川家と織田家どちらにつくか」という決断が
ドラマの第二回以降で描かれることでしょう。

さて、読者の皆様がもし家康の立場だったら
「どうする」でしょうか?

信長だったら?
…今川氏真の立場だったら?

歴史にイフはない、とは言います。しかし、

歴史を題材にシミュレーションしたり、
生活に援用して実用してみたりする
のは、
面白いことだと思います。

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