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佐川美代太郎 ~いくつになっても学び、描く~

手塚治虫に「綺麗な色の秘密を教えろ!」と
迫られたことがある漫画家。

いや、漫画家というだけでなく、
絵本作家、大学教授など
たくさんの経歴を持つ生粋のクリエイター

本記事では「佐川美代太郎」を紹介します。
さがわ みよたろう!
1923年(大正12年)生まれ。
2009年(平成21年)に亡くなる。

茨城県の真壁(まかべ)という街
(現桜川市)に生まれました。
筑波山の西のあたり。
下妻中学校(現下妻一高)に進学し、後に
弁護士になるために中央大学法学部に進学!

最初は「弁護士」を目指していました。

ところが、大学在学中は戦争の時代です。
学徒出陣をして、軍用馬の世話をした。
「自分は鎮魂のために
馬を描かなければいけない」と思ったらしい。
(後日、彼の作品には
馬やロバがたくさん出てきます)

さて、戦後に復員・復学した彼。
「これからは経済の時代だ!」
弁護士になることをやめて、
企業への就職を目指します。
法学部から商学部へと転部するのです。

大学卒業後には、電機メーカー、
卸売会社などで経理の仕事に就く。
仕事のかたわら、
『読売アンデパンダン展』という美術展に
自分の作品を出すようになる。

ここで、運命の出会いがあるんですね。

審査員の近藤日出造(こんどうひでぞう)
彼に師事をするようになる。
近藤は、1908年の生まれ。
1コマの風刺漫画を中心に書いていた。
手塚治虫曰く「似顔絵の名手」
読売新聞の政治面の政治漫画を描いていた。
(のちの日本漫画家協会の初代理事長です)

1954年、佐川は近藤が中心となってつくった
「漫画集団」に入会します。
1955年に山陽新聞でデビュー、
1956年には日本経済新聞の
連載漫画を始めることになるんです。
「大人漫画」を描くプロの漫画家になった。

…ここで、補足を加えましょう。

現代において「漫画」(マンガ)は
子どもも大人も、誰でも楽しめるものです。
スマホで縦読みスクロールできる
ウェブトゥーンというジャンルも生まれている。

しかし、昔からそうだったか、というと
そうではない。

1970年代あたりからは
「漫画の神様」こと手塚治虫が切り拓いてきた
「子ども漫画」の「ストーリー漫画」が
漫画の主流となりますが、
それまでは「決してそうではなかった」のです。

※注:1966年に『巨人の星』、
1968年『あしたのジョー』が連載開始となり
大ヒットしたという社会的な影響もある。

「大人漫画」というジャンルがあった。

文字通り「大人向けの」漫画です。
1930年代から1960年代、
戦前から戦中、戦後しばらくにかけては、
この「大人漫画」こそが日本の漫画の本流!
手塚治虫的な子ども向け作品は
傍流だったのです。

セリフは写植ではなく、全部手書き。
大卒の知的な大人が描くものとされ、
子ども向けの漫画とは一線を画していた。

「…いわゆる『劇画』では?」

いや、違うんですよ。
劇画は、1957年に辰巳ヨシヒロが
新しい漫画の表現、ジャンルとして始めた呼称。

「子ども向けではない」と区別する意味で、
デフォルメを少なくして写実的に描いたもの。
(余談ながら『巨人の星』『あしたのジョー』も
この「劇画路線」の流れを汲んでいます。
子ども向け漫画に、劇画を組み込んだんです)

簡単にまとめますと
この頃(1960年前後)は「漫画」と言えば
おおまかに分けて三つの流れがあった。

◆大人漫画:新聞など、大卒の作家が描く
◆子供漫画:のらくろ、手塚治虫作品など
◆劇画:1957年~ 新しい表現技法の漫画

…現在においては、週刊少年ジャンプの
ドラゴンボール、ワンピース、スラムダンク、
鬼滅の刃、など、いわゆる
「子ども(低年齢層)向けのストーリー漫画」
が、いわゆる漫画の主流です。

(もちろん少女漫画もありますが)

かつ「ヤンマガ」「ヤンジャン」など
青年誌の「青年層向けの漫画」雑誌もあり、
ゴルゴ13などの「劇画」という
ジャンルもあるよね…
という
認識だと思います。

子供漫画や劇画がガンガン伸びた一方、
「大人漫画」というジャンル、表現は
今ではほとんど使われなくなった。

衰退しちゃったんです。

でも当時は、漫画の主流=大人漫画だった。

話を戻すと、佐川美代太郎は、この
「大人漫画」の作者だったのです。
ゆえに今では、同年代だった
手塚治虫や水木しげるほどには
知られていません。

…ただ彼は、自分の作風に
安住することはありませんでした。

1965年、仕事をセーブして
東洋大学大学院の聴講生になります。
加えて、東京の目白の「絵画研究所」で
基礎から絵画を学び直していく。

そしてこれらの「修行」の成果として
「週刊漫画サンデー」に
『汗血のシルクロード』『望郷の舞』などの
細密な描写のストーリー漫画を発表する…。
(下部のリンクからぜひ。
その画力に圧倒される、と思います)

1923年生まれなので、
1965年と言えば42歳の頃。

漫画家は過酷な仕事です。
当時は40歳で引退とも言われていた。
なのに一念発起して大学院で学んで、
絵も学び直し、ストーリー漫画を描く…。

なんというクリエイティブ魂!

さて、50歳になる頃に、
佐川美代太郎は漫画執筆現場の最前線を退き、
後進を育てることにします。

京都精華短期大学(現京都精華大学)の
美術学部デザイン科に新設された
「漫画コース」の教授に就任!
1973年のことです。
プロの漫画家が大学教授に就任した
日本初のケース
だ、とも言われる。

…それから20年以上、
学生の指導に従事しました。

◆「漫画の基本は絵画です」
◆「絵が描けなければ漫画は描けません」

これが持論。
ひたすら生徒に「絵画の修行」をさせる…。
学生たちと動物園に行って、
一日中、動物の絵を描かせた。
もちろん佐川も学生と一緒となって
動物をスケッチしたそうです。

その一方で1977年、佛教大学の仏教学科の
三年次に編入学
して禅画を研究する。
かつ、卒業後にはすぐ
仏教と日本文学との結びつきを学ぶために
国文学科に再入学、三年間学ぶ。

晩年は仏教をベースとした
絵本作品を発表しています。
カラー塗りの綺麗な作品が目立つ。

かの手塚治虫がアポなしで京都に来て
「綺麗な色の秘密を教えろ!」と迫った、

という逸話もある…。

経歴を簡単にまとめてみます。

◆茨城生まれ、もと弁護士志望、美術展出品
◆東京で「大人漫画」の作品を新聞に連載
◆『汗血のシルクロード』などを発表
◆京都で漫画コースの教授
◆仏教などを学び、晩年は絵本作品を発表

2009年に死去。85歳でした。

最後にまとめます。

本記事では
佐川美代太郎の生涯を紹介しました。

いくつになっても学び続ける。
いくつになっても描き続ける…。

そんなことを教えてくれる生涯なのです。

※『汗血のシルクロード』
『望郷の舞』などの作品はこちらから↓

※こちらの記事も参考にしました↓
『現代の「創作版画家」:佐川美代太郎 Part3』

合わせてぜひどうぞ!

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