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戦国時代と江戸時代の一番の違いは何か?

「合戦と平和? 混沌と安定?」

…漠然としたイメージであれば
いくらでも出てくる、と思います。

ただここでは物理的に、
「大名たちにとっての行動の違い」を
考えてみますと、

◆『領土を広げられるか、広げられないか』

この一点が大きく違うと思われます。

戦国時代は、「戦う国々」の時代です。
信長や秀吉、家康たちの行動は
「戦いと拡大の人生」でしたよね。

富国強兵。相手の国に攻め込む。
自分の勢力を広げる。
その結果としての天下統一。

一方、江戸時代は「戦う国々」ではない。
戦いは、江戸幕府に禁止されています。
勝手に他国(他の大名領)に攻め込んで
領土を広げることができない。
そんなことをしたら、お取り潰しです。

そう、江戸時代は言うなれば、
「自分たちの持ち場でできることをやれ」
という時代だったと言えるでしょう。
狩猟型から農耕型へ、と言ってもいい。

「…まあ、そうですよね。うん。
でも、それが何か?」

はい、この部分を少し深掘りしたい。
つまり、時代の変化にどう対応したか、
どう変わっていったのか


本記事は、江戸時代の大名のチェンジ、
アクションを軸に書いてみたものです。

具体例があったほうがいいですよね。
本記事では、関東地方にいた大名、
「佐竹氏」の例を取り上げてみます。

さたけ。

古くは源頼朝と戦ったほどの
古豪、名門、由緒正しい家柄!
八幡太郎と呼ばれた名将、源頼家の弟、
「源義光」の流れを組む一族です。

最初は茨城県の水戸市の北のあたり、
常陸太田市の「佐竹郷」のあたりを
本拠地にしていました。

源頼朝と戦ってしまったので、
鎌倉時代は不遇でしたが、
室町時代には北朝方について奮戦したのが
認められ、幕府の重鎮となりました。

1399年、第三代鎌倉公方
(関東地方を広く治める役職)の
足利満兼によって「関東八屋形」という
「関東の偉い名門」が定められた時、
佐竹氏もその中に入っていた。
いわゆる「お屋形様」の一人。偉い人!

…ただ、こういう名門の一族って、
たいてい戦国時代~安土桃山時代の
「下剋上」の中で滅びていきますよね。
しかし、佐竹氏は、違った。

戦国時代に、優れた英雄が出てきたんです。

第18代当主、佐竹義重は
「鬼義重」とも呼ばれた豪傑、名将でした。
その子、第19代当主佐竹義宣(よしのぶ)は
「豊臣政権の六大将」の一人として
徳川・前田・島津・毛利・上杉と
並び称されるほどの大大名!

後北条氏の滅亡後に関東・江戸に入った
徳川家康を、北東の常陸(茨城)から
見張る役目を担っていた。

この佐竹義宣、豊臣政権の中枢にいた
石田三成とも仲が良かったんですよ。
もし、家康が関ケ原の戦いで敗れて
滅亡でもしていたら、
おそらく佐竹氏が関東一円を支配する
大勢力になっていたことでしょう。
その後の「佐竹幕府」の目も、
もしかしたらあった、かもしれない。

…しかしそうはならなかったんです。
1600年、石田三成は関ケ原で敗北、刑死。

義宣は、積極的には家康には味方せず、
かと言って完全に敵対して
江戸城に攻め込むということもせず、
どっちつかずの態度を取っていました。
父親の義重は東軍につくことを主張、
家臣の中でも東軍派・西軍派がいて、
まとめきれなかったのでしょう。
迷っていた、のかもしれません。

さて、関ケ原の戦いの後、この佐竹氏を
家康は「どうする」のでしょうか?

…思いっきり地方に飛ばすんです。
常陸から出羽へ!
つまり、茨城の水戸から、秋田へ。
54万石から、20万石へ。収入は半減。

家康サイドから見れば、
江戸の近く、常陸の水戸に
名門佐竹氏がいるのは、危険極まりない。
佐竹氏を出羽に追い払い、
自分の子ども(末っ子)の徳川頼房を
水戸藩主に据えました。


(ちなみに、この頼房の子どもが、ご存知
水戸黄門、徳川光圀。
彼は隠居後、佐竹氏の元の本拠地だった
常陸太田に移り住み「西山荘」で過ごします。
佐竹氏を密かに慕っていた民たちを
抑えていたのでしょうか)

太平洋側から、日本海側へ。
温暖な常陸から、雪深い出羽へ…。

かつ、江戸時代は冒頭で述べたように、
「戦って領土を広げる」ことができない時代。
佐竹義宣、封じ込められる…。

で、この人は、何をしたのか?
幕府に反抗したのか? 違います。

「外に出られないのなら、
中を開発して、充実させてやる!
考えをこそ、変えろ!」

そう、戦国大名から
江戸の大名へと「チェンジ」したんです。
時代を読んだ見事な判断だった、と思います。

と言いますのは、
この「時代への変化」ができない
戦国気質の大名たちが、
次々とお取り潰しの悲劇に遭っていた
んです。

有名なところでは、
福島正則、加藤清正、小早川秀秋の
福島家、加藤家、小早川家など。
江戸時代の初期に、潰されていきます。

無理もない。
人間、そうそう変われませんから。

その点、佐竹義宣は、違う。

まず、本拠地を定めました。
父親の義重は戦国時代の感覚だったのか、
「横手」という米がたくさん採れて
守りやすい内陸の場所を推しますが、
義宣は、海に近い「久保田」を推す。

これが功を奏した。
江戸時代は「水運の時代」ですから
久保田の街は大いに栄えました。
これが、後の「秋田市」です。

次に、家柄や旧例にとらわれずに
内治に長けた新しい家臣を
積極的に能力本位で登用していきます。

彼らは、抜擢におおいに奮い、都市の整備、
開墾・新田開発などに活躍していく。

「ふん、面白くもない。
…殿は、古くからの家臣を
ないがしろになされるのか!」

不満をためた譜代の老臣たちは、
渋江政光という新たに抜擢された男を
暗殺しようとしますが、

露見し、逆に義宣に粛清されました

こうして不満分子を一掃した義宣は、
「外」に向かっていたパワーを
「中」に向けさせて開発を続けて、

佐竹氏は江戸時代の終わりまで
無事に繁栄することができた
のでした。

明治時代には、華族になります。
2009年から秋田県知事を務めている
佐竹敬久(のりひさ)さんは、
この佐竹氏の分家の出身だそうです。

最後に、まとめましょう。

本記事では、戦国~江戸における
名門大名、佐竹氏の「チェンジ」について
書いてみました。

時代の流れ、変化をどうつかみ、
どのように行動するのか?

佐竹氏の軌跡は、一つの成功した事例として
良い思考材料になるか、と思います。

(明治維新後に「拡大」したのち、
戦後に「封じ込められて」、
「国内開発と加工貿易」に活路を見出した
戦後日本にも通じるところがありますよね)

読者の皆様は、いかがでしょう。
これからの時代の流れ、どう読みますか?

このあたりの歴史に興味のある方は、
岩明均さんの名作短編漫画、
『雪の峠・剣の舞』をぜひ。

佐竹氏の判断と変遷が、
『寄生獣』『ヒストリエ』の絵柄で
鮮やかに描かれていますよ!

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