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アニメ映画監督、細田守さんの苦い思い出。

(ここから引用)

『「僕はどちらかというと。飛び移り損ねた方。
当時は『ハウルの動く城』の監督をクビになって、
もう映画が作れないという気持ちのままに、
この40話になだれこんだんです」
と告白した細田監督。

「人生のチャンスがふいに訪れるとして、
その瞬間にどちらかを選択しないといけない。

でもその瞬間はいつ来るかわからない。
通り過ぎた時に初めて
チャンスを見送った気分になるんです。

そういう時って、
わななくとか怒るとかじゃなくて、
ただボーッとしてしまう。

でもそれは失敗じゃなくて、
それも人生の味わい方の一つじゃないか。

(引用終わり)

…そう、宮崎駿監督、ジブリのアニメ映画の
『ハウルの動く城』は、実は、この
細田守さんが監督として作るはずだった。


しかし諸事情で制作中止(2002年4月)。
宮崎監督がその後に監督として作り直し
2004年に公開されました。

…細田監督は失意にさいなまれる中、
『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』の
第40話「どれみと魔女をやめた魔女」
(2002年11月放送)を作ります。

この復帰第一作を視聴した
アニメ制作会社の丸山正雄さんという人が、
『時をかける少女』のオファーを彼に出す。
この映画は2006年に公開されて、
大ヒットとなり、細田監督は
復活ののろしを上げることになるのです。

本記事では、細田監督とジブリについて。

細田守監督。1967年生まれ。
彼がアニメに強く関心を持った作品の一つは
『ルパン三世 カリオストロの城』
(1979年公開)でした。

ジブリに、入りたい!!

1991年頃、細田監督はスタジオジブリの
採用試験を受けます。
…最終選考まで残ったものの、入れなかった。

「絵を2枚以上書いて提出する」
そんな一次試験で、細田監督は、
何と150枚以上も提出していました。
恐ろしいほどの熱意! しかし、

「君のような人間をジブリに入れると
かえって君の才能を削ぐと考えて、
入れるのをやめた」

宮崎監督からの手紙には、
そんなことが書かれていたそうです。

「雑用係でもいいから入れて下さい!」

そう懇願する細田監督への
ジブリ側の返答は、こうでした。

「今回、宮崎さんが手紙を書いたのは
全受験者中、二人だけです。
これは光栄なことですから、
おとなしくあきらめて下さい」

…こうして細田監督は、
1991年、東映動画に就職します。

その後、2000年3月、細田監督は
『劇場版デジモンアドベンチャー
ぼくらのウォーゲーム!』を公開。
この先進性が話題となる中で、何と、
ジブリからオファーが来ました。
『ハウルの動く城』を作らないか、という話。

…当時のジブリは、
宮崎監督、高畑勲監督以外の
若手に監督を任せよう、という方針。
このあたりの作品は、と言えば。

◆1997年『もののけ姫』
◆1999年『ホーホケキョ となりの山田くん』
◆2001年『千と千尋の神隠し』

宮崎監督は「もののけ姫」からの「千と千尋」。
とても忙しい頃です。
細田監督、快諾します。
まさに「人生のチャンスに飛び乗った」。
彼は、東映動画からジブリに出向しました。

(ここから引用)

『僕がジブリに行って『ハウル』を作ってる時に、
その当時ジブリは『千と千尋(の神隠し)』で
大変だったわけですよ。

だから、『ハウル』の準備のために
ジブリが割けるスタッフがいなかったの。

いなかったんで、自分で集めなきゃいけなかった。
作画にしろ、美術にしろね。
自分が監督として、スタッフを
集めていかざるをえなかったわけ。

「お願いします」と言って、
やってもらってたんです。
僕はプロデューサーではないから、
「気持ち」だけでお願いしてるわけですよね。

「あなたが必要なんです」と言って
お願いしているんです。
「『ハウル』は総力戦だ!」と
思ってるわけだからさ、
「この人がいなきゃダメだ!」と思うような人に、
1人1人、お願いしてきてもらっていたんです。

ところが諸事情で、プロジェクト自体が
ドカーンとなったわけじゃない。

監督って、プロジェクトが崩壊した時に、
スタッフに何かを
保証できる立場にないんですよね。

それが崩壊した時に、その人達に対して
申し訳ないというかさ。
「絶対にいいものを作ります!」と言ってたのに、
公約を果たせなかった。

ある意味、嘘をついちゃったわけです。
裏切ったわけです。

もう、誰も自分を信用してくれないだろう。
映画って1人じゃ作れないからさ、
本当に「もう俺は終わりだ!」
思ったんだよ(笑)。これはマジな話ね。

これからは大きな事を言わずに、
業界の隅っこで細々と
ビジネスライクに
やっていこうと思ったわけですよ(苦笑)。』

(引用終わり)

このように細田監督は振り返ります。
…なぜ「細田版ハウル」が制作中止に?
諸説ありますが、真相はわかりません。

結局『ハウルの動く城』は
宮崎監督が作り直し、2004年に公開されます。

一方の細田監督は、先述した通り、
2006年に『時をかける少女』を公開。

その後も快進撃を続けます。

◆2009年『サマーウォーズ』
◆2011年 自身の会社「スタジオ地図」設立
◆2012年『おおかみこどもの雨と雪』
◆2015年『バケモノの子』
◆2018年『未来のミライ』
◆2021年『竜とそばかすの姫』

『竜とそばかすの姫』は
第74回カンヌ国際映画祭の
「カンヌ・プリミエール」部門に
日本映画として唯一選出されました。

まさに絶望の淵に叩き落とされた竜騎士が、
世界へと飛翔したような印象…!

最後に、まとめます。

私は、この二人の偉大なクリエイターの
すれ違いとせめぎ合いに、
『その時 歴史が動いた』を感じます。

宮崎監督は、アニメ界の第一人者。
しかしその手法は、時に
職人的、アナログ的で、哲学的。
賛否両論。解釈が難しい作品もあります。

一方の細田監督は
デジタル技術を最大限に駆使し、
「今どきのアニメ」の最前線で進撃している。

宮崎監督が細田監督に宛てて
手紙に書いた、と言われる言葉。

「君のような人間をジブリに入れると
かえって君の才能を削ぐと考えて、
入れるのをやめた」


…これは、優れたクリエイターにしか
わからない何か、未来予想、
だったのではないか?

細田監督も「ハウル騒動」を
振り返り、こう述懐されています。

(ここから引用)

『飛び移ることができなかった
自分のもの悲しさが、作品にも
漂っていたのでしょうか。

でも、それを丸山さんが観て、
『時をかける少女』につながるんだから
世の中ってわからないものだと思います』

(引用終わり)

人生は、捨てたもんじゃない。

細田監督の作品には、
「人生を肯定する」という考え方がある。
素晴らしい考えだと私は思います。

…読者の皆様は、いかがですか?

どん底は、本当に、どん底でしょうか?
見守ってくれる人、期待してくれる人が、
世の中のどこかにいるのではないでしょうか?

※参考・引用した記事はこちらです。

「細田守監督、『ハウルの動く城』を
クビになった挫折を振り返る」
という記事はこちら↓

「細田守×宮崎駿の関係を徹底解説!
実はジブリで『ハウルの動く城』の
監督を務めるはずだった?」
という記事はこちら↓

「細田守がジブリで作るはずだった
『ハウルの動く城』」
という記事はこちら↓

「宮崎駿から拒絶された細田守が
デジタルを武器にたどり着いた
『竜とそばかすの姫』」
という記事はこちら↓

こちらは手前味噌ですが、
『幻の押井守版ルパン三世』
という記事も以前に書きました↓

合わせてぜひ!!

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