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山本権兵衛、ごんべえ、という人がいます。

1852年に生まれて、1933年に死去した。
ペリーの黒船来航の前年に生まれて、
満州事変の二年後に死去した。
幕末~明治~大正~昭和初期を
生き抜いた人。

…この人、今一つ、知名度が低い。

なぜならば、二回も総理大臣を
務めたにもかかわらず、
「シーメンス事件」「虎ノ門事件」という
事件の責任を取る形で
自分の内閣を早々に終わらせたから。

本記事ではこの「ごんべえさん」の
生涯の概要を紹介していきます。

1852年、薩摩藩、いまのほぼ鹿児島県の
城下、加治屋町に生まれました。
父は藩の右筆および槍の師範。六男です。

幕末の薩摩藩と言えば、何と言っても
「西郷隆盛」ですよね。
彼の紹介により、切れ者の幕臣、
「勝海舟」に紹介された。

…勝海舟は内心、喜んだことでしょう。
彼は西郷をひとかどの人物と見ている。
その西郷が、薩摩藩の俊英、逸材を
俺に紹介してくれたんだ、と。

しかしながら勝海舟、
一筋縄ではいかない男です。
あの坂本龍馬を説き伏せて
自分の弟子にするような男です。
わざと、でしょうね。一回断った。

権兵衛青年、あきらめない。

三日連続で勝海舟の元に通って、
ついに海舟に弟子入りを認めさせた。
「こいつぁ、ものになるな」
と海舟も思ったことでしょう。

さて、権兵衛は勝海舟の肝入りで
海軍について学ぶことになります。
幕末の動乱、戊辰戦争、
その中で実戦の腕を磨いていく。

海軍の学校では、実戦経験のない教官たちに
「いや、実戦ではそんなことは起きない」
と歯向かうような生徒だったそうです。
ちょっと扱いにくい。
でも理にはかなっている。

しかしそんな権兵衛に、
ものすごく悩ましい事件が起こります。

明治新政府に仕えていた権兵衛。
しかし、恩人である西郷は、
政府首脳たちと衝突し、鹿児島に帰った。
1874年、西南戦争が起こる前のこと。

どちらにつく権兵衛、どうする権兵衛!

彼は、西郷の下に行き、彼と面会しました。
しかし西郷も大人物だ。
権兵衛に、こう言った。

「お前は、日本の未来のためにな、
東京で海軍の勉強を続けるべきだぞ」

ここでもし西郷と運命をともにしていたら、
日本の歴史もかなり変わっていたでしょう。
権兵衛は東京に戻り、上官に詫びを入れ、
無事に海軍に戻ることができました。

その後、ドイツ海軍に修行のために派遣されて、
海外で西南戦争の事実を知ったそうです。
彼の心中、いかばかりか…。

さて、その頃に彼が出会ったのが、
ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」の船長、
グラフ・モンツという人物です。
権兵衛が二十四歳の頃。

十か月に及ぶ世界半周の練習航海。
その間に、彼はモンツ船長から
多くのことを学びました。
歴史、地理、政治、経済、法律、哲学、
それだけでなく船長は彼に
服装、態度、礼儀、趣味など
事細かに教えてくれたと言います。
モンツ船長はドイツ貴族の出身。
高い教養を持つ高潔な人格者でした。

この体験が、島国日本の一青年を
世界標準のスケールの大きな男に
変えたことは想像に難くない。
後年、彼はこう言っています。

「私が今日あるのは、
まったくモンツ船長の感化によるものだ」

恩人西郷を失った時、彼は
人生の師を得たのでした。

ちなみにこのドイツの練習船に乗る直前、
遊女であったトキという少女を店から脱出させ、
知り合いの宿にかくまっています。
後に彼女は妻となり、山本登喜子となりました。
当時はまだ珍しい一夫一妻、恋愛結婚。これも
高潔なモンツ船長の影響なのかもしれません。
生涯の伴侶も得た。

さて、順調に出世した権兵衛。
1891年には海軍省大臣官房主事、
1894年の日清戦争時には海軍大臣副官となる。

「かみそり大臣」こと外相、陸奥宗光
天才と呼ばれた陸軍中将、川上操六
綺羅星の如くの才能を相手に、
この権兵衛、熱弁を奮う。

当時の海軍は、陸軍の下の立場でした。
海軍の重要性は、まだ認識されていません。
(戊辰戦争や西南戦争は国内の戦いで、
陸軍の戦いが主体でしたから…)

「陸軍には工兵隊がいらっしゃいますか?」

「もちろん、いる」

「では、彼らに日本列島から橋を架けさせて、
その橋を渡って朝鮮半島に行くと良い」

当時の権兵衛、まだ大佐。
それが陸軍のお歴々に対して主張する。
海軍をなめんじゃねえ、と。
ただ川上もさるもの、確かにそれもそうだと
権兵衛の説く「海上権」という概念を理解し、
そのあとは陸海が協調して
作戦を立てていったそうです。

日清戦争に勝利。
…しかし戦後の「三国干渉」により、
ロシアの脅威が増していきます。

「日露の戦いは避けられぬ。
しかし今の海軍のままでは戦えぬ」

世界を知る権兵衛、荒療治に出る。

何と、将官八名、尉佐官八十九名もの任を
解いてしまうのです。大リストラ!
私情は一切挟みません。
西郷隆盛の弟、上司の西郷従道でさえ
「やり過ぎじゃないか」と言いましたが、
最終的には納得させます。

こうして生まれ変わった海軍を率い、
日露戦争へと臨む山本権兵衛。
仕官たちには「世界を見てこい」と
秋山真之などの逸材を留学させます。

連合艦隊司令長官には、
東郷平八郎を起用。
開戦直前、1903年のことです。

その前の長官は日高壮之丞という男で、
薩摩藩出身、権兵衛とは同期でした。
彼のクビも容赦なく斬る。更迭後の日高に
「権兵衛、こんな辱めをするなら
俺を短刀で突き殺せ!」と言われたとか。
しかし権兵衛、決して曲げない。
すべてはロシア艦隊に勝つため。

(もっとも日高はこの頃を健康を害していて、
戦争中には療養していたという説もあります)

この東郷・秋山たちの活躍で、
日本海海戦に勝利します。
日露戦争を講和に持ち込めたのも、
権兵衛の人事手腕のおかげの部分が大きい。

後年、海軍の重鎮として政界に参加、
総理大臣を二度も務める。
…ただ先述した通り、総理としては
業績を上げられなかったせいか、
知名度は高くないのです。

最後にまとめます。

本記事では「日本海軍の父」
山本権兵衛について書きました。

1933年の三月、最愛の妻、登喜子が死去、
後を追うように同年の十二月、死去。

遊女であった彼女と結婚するとき、
彼は彼女が読みやすいように、
ふりがなを振った「誓約書」を書いていました。
七か条の誓約書の第二条は…。

『夫婦むつまじく生涯たがいに不和を生ぜざる事』

生涯、という漢字には
「いつまでも」というふりがなが
振ってあった、と言います。

日清戦争時、陸軍と海軍を協調せしめ、
鬼人事とも言えるリストラも敢行、
しかし私人としては妻を最後まで尊重した紳士…。

妻の死の直前、彼は登喜子にこう言ったそうです。

『お互い苦労してきたが、俺としては
今日まで何一つ曲がったことをした覚えはない。
お前もその点、安心して逝ってくれ。
いずれ俺も、あとを追ってゆくから』

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