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『地下室の手記』という小説が、あります。
書かれたのは1864年、日本で言えば幕末、
新選組が池田屋を襲撃した頃です。

本記事では、この小説について書きます。
あえて作者名は最後までは書きませんので、
誰の小説か、考えてみていただくのも一興かと。

この小説は、ひたすら主人公が
「手記」を書いて自分の思いを告白する、
という形になっています。

一言で言えば、異常。

そこから放たれる言葉は愚痴のオンパレード、
まるで自意識過剰の塊のような主人公です。
ちょっとお友達にはなりたくない感じ…。

最初のあたりを、少しだけ引用します。

(ここから引用)

『ぼくは病んだ人間だ……
ぼくは意地の悪い人間だ。
およそ人好きのしない男だ。

ぼくの考えでは、
これは肝臓が悪いのだと思う。

もっとも、病気のことなど、
ぼくにはこれっぱかりもわかっちゃいないし、
どこが悪いのかも正確には知らない。

医学や医者は尊敬しているが
現に医者に診てもらっているわけではなく、
これまでにもついぞそんなためしがない。

そこへもってきて、もうひとつ、
ぼくは極端なくらい迷信家ときている。

まあ、早い話が、医学なんぞを
尊敬する程度の迷信家ということだ。
(迷信にこだわらぬだけの教育は
受けたはずなのに、
やはりぼくは迷信をふっきれない。)

いやいや、ぼくが医者にかからぬのは、
憎らしいからなのだ。
といっても、ここのところは、
おそらく、諸君のご理解を
いただけぬ点だろう。
ぼくにはわかっているのだから。

むろん、ぼくにしても、この場合、
では、だれに向って憎悪を
ぶちまけているのだといわれたら、
説明に窮するだろう。

ぼくが医者にかからぬからといって、
すこしも医者を《困らせる》ことに
ならぬくらい、
わかりすぎるほどわかっているし、

こんなことをやらかしても、
傷つくのはぼくひとりきりで、
ほかのだれでもないことも、
先刻ご承知だからである。

けれど、やはり、ぼくが医者に
かからないのは、
まさしく憎らしいからなのだ。

肝臓が悪いなら、
いっそ思いきりそいつをこじらせてやれ!』

(引用終わり)

うーん、なんか、
ひねくれて、理屈っぽい、堂々巡りの、
考え過ぎのクヨクヨグダグダしている感が
この文章から、にじみ出てはきませんか?

主人公は四十過ぎの小官吏。
つまり「下っ端公務員」なのですが、
世の中を憎悪する、暗い性格をしています。

「俺はまだ本気を出してないだけ」
「俺がうまくいかないのは世の中のせい」

そういう感情を「地下室」の中で
えんえん垂れ流しているような作品なのです。

…この小説の作者は、
『地下室の手記』を書くまでは
どちらかというと明朗で、理想的な作品を
多く書いていました。
しかしこの作品のあとは、
どちらかというと難解な、没理想的な、
人間とは、社会とは、
かくも醜い面がある、という作品を
多く書いていくことになります。

その意味で、この作品は
画期的な作品とも言われています。

作者の「闇」の中をとことん自分で突き詰めて
それで解決するかと言えば解決しない、
闇を闇のまま、光の中にさらけ出したような
虚無感すらただよう作品
、なのです。

中身の話に戻しますと、

主人公の(言葉は悪いですがあえて書きます)
「厨二病のキモいおっさんin地下室」は、
なぜ自分がこんなにも
屈折した考えを持つに至ったのか、
地下室に入る前のエピソードを並べて
「自己弁護」をしていきます。

◆見知らぬ人をつけまわし個人情報を収集する話
◆呼ばれてもない飲み会に参加して場を荒らす話
◆女性にえんえんと説教をする話

ストーカー、場違い男、説教おじさん…。
そういった「やっちまった」黒歴史的な経験。

そのような経験をこの主人公は
糧にするでも反省するでもなんでもなく、
やはり悪いのはこの社会なんだ!
結論付けていくんですよ。
ちょっと、いたたまれない。痛い。
「黒歴史」を白く昇華するのではなく、
あえてドス黒く告白しているような感じ。

でも、なぜか読んだ後、まあそんなことがあれば
引用したような「ひねくれた考え」が
生まれるのもわかるかな…と納得するような、

ちょっと不思議な小説なのです。

…ではそろそろ、この小説を書いた
作家の名前を、明かしましょう。

Фёдор Миха́йлович Достое́вский。
カタカナで書くと、
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。

そう、ドストエフスキー↓

1821年に生まれ、1861年に死んだ、
ロシアを代表する文豪の一人です。
『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など、
代表的な大作はこの『地下室の手記』が
書かれた後に書かれています。

『人間は「二二が四」のような数学的、
合理的なだけの存在ではない。
もし人間がそういう存在ならば、
それは機械となんら変わることがない。
それがはたして人間と言えるのだろうか。
非合理な感情があるからこそ人間なのでは…?』

ドストエフスキーは、地下室のおじさんの
言葉を通じて、こういうことを
世界に問いかけたのだ、とも言われています。

最後に、まとめていきましょう。

…もし私が本記事の最初からこの小説を
「ドストエフスキーが書いたんですよ!」
と書いて紹介していたのであれば、

読者の皆様は「ロシアの文豪」が書いた小説、
文学史上に残る傑作かも…?
という頭で『地下室の手記』の説明を
読んだと思うんです。
「やはり文豪は人間の心に入り込んで
じっくり作品を書いているんだな…。
すげえぜ、ドストエフスキー!」
とか思っちゃったりして。

しかし、私はあえて作者名を伏せて
説明を書きました。

その「暗闇」の中で、本記事の
『地下室の手記』の説明を読んだ時、

「…うわ、こりゃ、ないわ~」とか、
「こんな売れなさそうな小説、
いったい誰が読むんやろ?」などと
思いませんでしたか?

そう、どうしても私たちは
「ドストエフスキー」=何となく凄い人
というイメージによって
その作品群を見てしまいがちですが、

作品だけに注目してその中身を見てみると、
けっこう「ドス黒い」ものを書いている…。
これこそが「ドス節」、
ドストエフスキーここにあり
、なのです。
逆説的ですが、ふつうは書かない心の闇を
あえて明るみに出して世に問うたからこそ、
「ロシアの文豪」と評価されているのです。

どうでしょう?
読者の皆様も、リアルな生活の中で、
こういうことはありませんか?

作者の名前だけで、作品を判断することが。

職場のプレゼンや会議で、
〇〇さんが言うことだから〇〇なんだろう、と
無意識のうちに決めつけてしまう
ことが。

画面の向こうのよく知らない人のことを
つい批判して愚痴ってしまうことが。

どうしても、人はイメージに左右されます。

自分では広く明るい草原にいるつもりでも、
実は、じめじめとした暗い地下室の中で
「決めつけ」をしている
かもしれませんね。

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