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江戸時代が長く続いたのはみんな知っていますが、
「なぜ」長く続いたのか?と聞くと
色々な答えが返ってくると思います。

「うまく統治システムが作動していたから」
「東アジアの国際状況が比較的平和だったから」
「豊臣家などライバルをうまく滅ぼしたから」
「徳川家の支配が巧妙だったから」…他多数。

いずれも、なるほどそうかもな、
と思えるような理由ではありますが、

そのうちの一つに、江戸幕府の創始者である
徳川家康の尋常でないほどの
「ラーニング能力」があったように思います。


どこから「ラーニング」したのか?

彼は戦国人ですが、読書人でもあり、
「吾妻鏡」などの本を読んで
源頼朝の鎌倉幕府の事績
(今で言えば『鎌倉殿の13人』?)を
学んだとも言われています。
東国に幕府を開いて、朝廷から距離を置き、
平家や足利幕府の失敗を重ねないようにした。

ただ、そのような
机上の勉強だけではないようにも思います。
彼は、自分で見聞きして体験したことも、
巧みに自分の政権に織り交ぜたのではないか?


本記事では、そういうお話を。

徳川家康。三河(愛知県の東のほう)の出身。
スタートは、決して恵まれてはいません。
東に「今川家」、西に「織田家」、
かなり強い戦国大名に挟まれた小さな家の出です。

事実、幼少の頃に母と生き別れ、
父は家来の謀反で殺されて、
自分自身も人質になりました。

特に、元服するまで過ごした今川家は、
彼の目にはきらびやかに映ったことでしょう。
思春期の頃の思い出は
黒歴史も白歴史も心に残るものです。

今川家。駿河(今の静岡県のあたり)を支配。
家康が天下を取ってから、
駿府(駿河の都、静岡市)に隠居したのも、
若い頃のトラウマがあったからではないか。
「俺は、あれだけ支配されていた今川家の
都に、今はいるんだぞ! どうだ!」的な。

この今川家は、京都風の雅な
礼儀作法に詳しい家風でした。


さて、織田家と同盟を結んで、
東の方向に専念した徳川家康。
最大の敵は、ご存知、武田信玄です。

今川家を奪い取っても、
一難去ってまた一難。
武田信玄の圧力は、尋常ではありません。
「こっちにつかないか?」と
誘われたこともあったでしょう。
信長との同盟を、律儀に守る家康は、
信玄にボコボコにされます。
それが「三方ヶ原の戦い」です。

武田家の家風としては、
「情報収集」が上手なことが挙げられます。

忍者をたくさん使う。
「山本勘助」も大河ドラマになりましたね。
相手の良いところ悪いところを
事前に知っておいてから、戦う。
「敵を知り己を知れば百戦しても危うからず」。

…おそらく青年家康は、
信玄の怖さ、その強さ、情報収集の大事さを
敵ながら素晴らしいと思ったことでしょう。
事実、後年、滅亡した武田軍の軍制などを
自分の軍に取り込んだ、とも言われています。

その武田信玄のライバルといえば、
ご存知、上杉謙信。
武力がハンパない、戦国最強の一人。

この上杉家の家風は「義」を重んじること。
正義の味方です。
まあもちろん主観的な正義ではありますが、
やましいことをしない、弱きを助ける。
謀略渦巻く戦国時代には珍しい家風ですが、
「平和な世の中」にはこのような
姿勢が必要ではないか…?
そう家康が思っても、不思議ではない。

と、そんなこんなをしているうちに
本能寺の変が起き、信長が死にます。
「光秀、謀反したんだ…」
「やはり、家臣は大事にしないとな…」
家康、身を持って実感したことでしょう
(彼も堺から三河に命からがら
逃げ帰ったりしていますし…)。

今度の天下は、織田家の同盟者である俺だ!
と気合を入れたら、中央では
秀吉という男がのし上がってしまいました。
貧農出身、下剋上の極みのような人。
「あんな奴の下風に立てるか!」
家康は『小牧・長久手の戦い』を仕掛けて、
戦術的に勝つんですけど、
戦略的には負けてしまいます。
豊臣家の家臣にならざるを得ません。
これ、けっこう屈辱だったのでは…。

で、国替えを命じられて、
滅亡した北条家の旧領土、
江戸を中心とする関東を
支配するようになります。

戦国時代の北条家。その源流は北条早雲、
伊勢新九郎という男なのですが、

彼は応仁の乱で乱れた京都から
関東にやってきた男。
彼の一族、北条家は、独自の法にて
関東を支配していました。
「分国法」なんて言われますよね。
戦国時代は各地で勝手に法律を作り、
マイルールを作っていった時代です。

おそらく家康は、北条家の支配に
うなずくところが多かったでしょう。
北条家の「法」というもの、統治システムに
なるほど、と感じたのではないか。


…と、ここまでをまとめますと、家康は、
「今川家」「武田家」「上杉家」「北条家」、
有名な戦国大名とじかにやり取りし、接し、
「織田家」「豊臣家」が
失敗したところも、直接に見てきた。

これが、江戸幕府、徳川家の支配にも
大きく影響していったのではないか?
というのが、本記事で提案したい推論です。
もちろん、理由の一つに過ぎませんが。

「今川家」の「礼儀」。
「武田家」の「軍制」「情報収集」。
「上杉家」の「正義」「誠実」。
「北条家」の「法制度」…。


さらに「織田家」「豊臣家」を反面教師に
「裏切らない家臣が大事」
「下剋上は許さない」などなど…。

もちろん、三河武士たちの徳川家は
忠義を誇った軍団なのですが、
天下を治めるとなると
他の家、大名も抑えなければ。

そんなこんなが相まって、

「家臣は家に忠誠を尽くせ」
「身分制度を固めろ」「隠密を各地に派遣」
「ルールを明確に」「恥となる行動はNG」
「武士は礼儀作法を学べ」
「お家騒動は許しません」

などの江戸幕府の統治制度、
基本、嫡男が継ぐ徳川将軍家の家風へと
つながっていったんじゃないでしょうか?
(もちろん、時には将軍家でも
後継者問題が起こったりはしますが)

言い換えれば、戦国大名たちの
いいところだけ取って、悪いところは排除、
と言ったところです。
『他山の石』ならぬ『他家の石』として
学んでいく。

ノーモア戦国時代。

このような「時代を変える」という志を強く持ち、
実際に行動していき、かつ、
たぐいまれなるラーニング能力があったからこそ、

徳川家康の江戸幕府は長く続いた、と、
私は感じているのです。

さて、読者の皆様の組織は
いかがでしょう?

もちろん、今は江戸時代とは
全く違う時代ではありますが、

「たゆまぬ情報収集」「顧客に誠実に」
「社内法の整備」「横領など犯罪防止」
…こういったことは、組織にとっては
非常に大事なことですよね。

会社や組織は、千差万別です。
色々な組織がありますが、

他の組織の良いところ悪いところを
SNSなどを駆使して情報を集め、
取捨選択して自分の組織に合うように、
また「あんな風にはならないぞ」と
反面教師にする
ように、
うまくラーニングをしていきたいですね!

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