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金谷 武 さんが「良いマネジメント」について
「人事部裏トーク」の動画の中で
部下のナオ君さんと語ってらっしゃったので
(リンクを貼りますのでぜひ)↓

思いついた歴史とからめて、書きます。
題して「秀吉のマネジメント」

ご存知、豊臣秀吉は、
徒手空拳から天下一の権力者にまで
上り詰めた歴史上の人物なのですが、

「人を動かす」力が、半端なかった。

言い換えれば「マネジメント」に
素晴らしい力を持っていたように思われます。

本記事ではこの側面から彼の行動と
その人材活用について書いていきます。

長い生涯なので、いくつかの段階にわけて
考えていきましょう。

①信長に仕えた時代(下っ端)
②信長に仕えた時代(司令官)
③天下取りに乗り出した時代
④天下を取った後の時代

この四つを順番に書きます。

①信長に仕えた時代(下っ端)

織田信長や徳川家康と違って、
秀吉はどこの馬の骨ともわからない
貧農の出だと言われています。

そのため「譜代の家臣」がいない。
代々仕えてきた忠義の士、などという
ありがたい部下、家臣がいないのです。

ですから、基本、自分で動くしかない。
仲間はせいぜい、弟の(のちの)豊臣秀長とか、
野盗の仲間の蜂須賀小六などしかいない。

こういう状態では、プレイングマネージャー
になるしかない
ですよね。
自分で打って、走って、監督もする。

一説によると秀吉は、
信長に仕えるまでに、ありとあらゆる職業を
経験した、とも言われています。
ほとんど奴隷のような職業や、
怪しい商売にまで手を付けた。

ただ、「戦国の世の中」ですから、
武力、暴力、そういったものが幅を利かせる
弱肉強食の世界でもあります。
そんな中で、彼は悟ったと思うんです。

「どんなに頭を使っても、
力がないとだめだ。ただ自分は力がないので、
『力を持った人を動かす』ことを考えよう」

これが、彼のマネジメントの原点ではないか。
秀吉、武芸に優れた大男、というわけではない。
だからこそ、「自分」を鍛え磨く方向ではなく、
「他人を動かす」ことを鍛え磨くようにした。

そのための格好の「教材」が
織田信長です。

信長も、筋肉バカとか個人の武芸とか戦術とか
そういった方面には重きを置きません
(個人的には相撲好きで
力士などを召し抱えたりしていますが…)
何しろ「鉄砲」の大量使用を考え、
実際の合戦に取り入れた人ですからね。

この信長の家臣となった秀吉は、
彼にこき使われ、その指令を達成する中で
マネジメントを磨く。

下っ端時代の秀吉の主な仕事は「調略」
つまり、敵の家臣に働きかけて
裏切らせる。仲間に引き入れる。

調略には、コミュニケーションや
段取り、根回し、そういったものが必須。
その能力をひたすら磨きました。
草創期の彼を支えた軍師、
竹中半兵衛なども、秀吉がじかに
調略してきた武将の一人と言われています。

②信長に仕えた時代(司令官)

さて、そんな秀吉も出世して、
晴れて城持ち大名になる。

プレイングマネージャーは変わりませんが、
部下、家臣を動かす立場になっていく。
そこで彼がしたことは、

「子飼いの家臣を増やす」、これですね。

加藤清正、福島正則、石田三成…。
後の豊臣政権で活躍する武将たちは、
彼が城持ち大名になった頃から
台所で釜の飯を食わせて養育した者たちです。

その中で、得意不得意を見極める。
清正や正則には実際に戦わせ、
三成には計算や補給の実務を積ませる。

そういった実地教育をさせながら、
怖い主君、信長からのミッションを
預かった将兵を使いながら達成していく。

毛利攻めは、一番大きな仕事。
いわば社運を賭けた戦いです。
そんな中で、秀吉は「小寺官兵衛」という
自分に似たような切れ者を仲間にします。

後の黒田官兵衛、「軍師官兵衛」ですね。

この官兵衛や、弟の秀長などを
うまく自分の「分身」として使いつつ、
膨大な仕事(合戦指揮や外交や調略)を
同時進行で進めていきます。

ここで必要なマネジメントは、
現代の会社組織に例えてみれば
「信長の意(社長・本社)を汲みつつ、
自分の組織(担当部署)の数字を挙げること」


ここでも、彼の家臣(部下)への
卓越したコミュニケーション能力、
対話する力が発揮されたことでしょう。

③天下取りに乗り出した時代

1582年、本能寺の変。
長年仕えてきた主君、いわば社長と
その長子が、いきなり死亡します。

秀吉は、トップの営業部長。
ただ、副社長とか、専務とか、
そういう地位ではありません。
柴田勝家はじめ、役職者が上にたくさんいる。

彼は何をしたのか?

まずは明智光秀を討って、
誰しもがわかりやすい功績を挙げた上で、
信長の「葬儀」を開くんですね。
いわば「葬儀委員長」になった。

さすがの役職者たちも、
秀吉の功績を認めないわけにはいかない。
清須会議という「後継者決め会議」で
信長の孫、三法師をかつぎあげる。

そうしておいて、次々と上の者を討つ。
一種のクーデター、織田家乗っ取りです。
下剋上です。

こういう大将(社長)のマネジメントとしては、
「ビジネス仲間を社内社外に増やしつつ、
子飼いの部下にどんどん功績を立てさせる」。

柴田勝家を倒した「賤ケ岳の合戦」では
「賤ケ岳の七本槍」として、
清正や正則たちの武勇を宣伝します。
その一方、黒田官兵衛や石田三成たちを
兵の補給や軍の切り回しに使いまくる。

秀吉も、自分が得意の調略で
敵であった徳川家康の同盟者を切り崩したり、
朝廷に働きかけて関白になったりと
自分自身すら使いまくる。

…彼の「適材適所」のマネジメント
フルに活用された時期ではないでしょうか。

④天下を取った後の時代

ただ、ご存知の通り、
豊臣家は次の代、秀頼の代で滅亡します。

そう考えると秀吉のマネジメントは
「彼がいてこそ」限定のマネジメントで、
彼抜きでは成り立たなかった
一代限りのもの、とも言えます
(江戸幕府のマネジメントと好対照です)。

五大老・五奉行制度も、秀吉の死後には破綻、
先の見えない朝鮮半島への出兵で
不満が大名たちの間でたまっていく。

子飼いの家臣の間ですら、
清正・正則たちと三成たちの間で仲違い、
のちの関ケ原で敵味方に分かれる。

人間関係に鋭い秀吉が
気づかないはずはないんですが、
もう、どうしようもなかったかもしれません。
自分の分身にも等しかった黒田官兵衛も、
豊臣の治世への脅威と感じられ
遠ざけられてしまいます。

それでも、自分が死ぬまでは
まがりなりにも政権をしっかり維持、
畳の上で死んだ。

これもまた「コミュニケーションおばけ」
秀吉のマネジメントがなせる技、
であるように思うのです。

最後にまとめます。

マネジメントはコミュニケーションに尽きる
と思います。

相手は人間、人間は凸凹がある。
そう考えると、その相手の心理に立った
働きかけ、仕事の提供、環境の整備、
こういったものが必要。

秀吉の生涯は、そこに活かせる
教訓に満ち満ちている。

私には、そう思えるのです。

秀吉の事績やマネジメントについては、
ヤンマガで連載されていた
『センゴク』などを読むといいと思います↓

合わせてぜひどうぞ!

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