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「銀」は世界を支え、動かしてきました。

何と言っても「貨幣」として
古来から使われてきましたよね。
利用をされ始めた頃には、
金より銀のほうが価値が高かった、
とも言われています。
銀は自然銀としてそのまま
産出されることがまれであり、
より貴重な珍しい金属だった。

しかしだんだん銀鉱石からの産出量が
増えていって、金に第一位の座を
譲ることになりましたが、
それでも各文明では
「貴重なもの」として使われ続けます。

本記事では、銀を巡る世界史の
あれこれについて書いてみましょう。


銀は、ギンギラギンの光沢を持ち、
かつ延性および展性に富んでいるために、
加工がしやすい金属です。
「銀貨」にしやすい。
誰が見てもわかりやすい、貴重なもの!

ただ、純銀のままですと
ちょっと柔らかいため、
他の金属との合金にされることが多い。
例えば「銀貨」にする際には
銅を混ぜたりされています。

…貴重であるがゆえに、
なかなか世界にあまねく行き渡る、
とまではいかなかった。

銀を握る者は、天下を握る!

例えば古代ギリシアのアテネ
港町ラウリオンに銀山を持っていまして、
これが強さの秘密の一つでした。
中世のヨーロッパでは
南ドイツにあるアウクスブルクに
「フッガー家」という富豪がいた。
これまた、銀山を所有していたがゆえに
大いなる勢威を誇っていたのです。
(スペイン国王やローマ教皇の
御用銀行でもありました)

ちなみに、16世紀のはじめには
チェコのボヘミア地方の
ヨアヒム(ヤーヒホフ)という街で
大きな銀山が発見されています。
ここで鋳造された銀貨が
『ヨアヒムスターラー』と
呼ばれることになった。
ターラー。現在の『ドル』の語源です。

…この「銀の寡占」を打ち破ったのが、
ご存知『大航海時代』

ポルトガル、スペインなどの
命知らずの航海者たちが海に出ていく!
その過程で「新大陸」発見。
(発見されるも何も
最初からそこにあったのですが…)

ここで大きな銀山が「発見」された。
世界史の大きな転換点の一つです。
その時、歴史が動いた!

現在のボリビア、
当時のスペイン領アメリカの街、
ポトシにある「セロ・リコ銀山」です。
セロ・リコとは、スペイン語で
「豊かな丘」という意味。

(ちなみにアルゼンチンを流れる
「ラプラタ川」は
スペイン語で「銀の川」という意味。
アルゼンチンという言葉自体も
ラテン語の銀を意味する
「argentum」から来ています。
どんだけ銀が欲しかったんだ…)

スペインは膨大な労働力をつぎ込んで、
ポトシの銀を掘り尽くしていきます。
先住民、ひいては、アフリカからの奴隷。
その産出量は爆発的なものでした。
(掘り過ぎて19世紀には枯渇しますが)

この銀が、ガレオン船に乗って
スペイン経由でヨーロッパに
運ばれていったんですね。
フッガー家は没落します。
ヨーロッパでは急に銀貨が増えたので、
物価がどんどん上がる。インフレ。

いわゆる『価格革命』です。

貨幣が増えれば、商業も盛んになる。
その一方で、固定した地代で生活していた
封建領主(諸侯や騎士たち)は没落する。
そう、新大陸の銀が、
もう少し後にヨーロッパで起こる
「市民革命」「産業革命」の
遠因となっていく
のです。

ただ、ポトシ(セロ・リコ)の銀は、
ヨーロッパだけに
向かったわけではありません。

メキシコのアカプルコという港から、
フィリピンにも運ばれます。
メキシコ・フィリピン、どちらも
スペインの植民地だった。
マニラの港から、中国商人の手で
中国にも運ばれていきました。

さてこの頃、東アジアでも
大規模な銀山が生まれています。
どこで? 日本で、です。

日本では戦国の頃の話。
博多の大商人であった
神屋寿禎(かみやじゅてい)という人が、
出雲国の銅山に銅を仕入れに行く途中に、
石見国の大森というところで
銀山を発見した。

現在で言えば、島根県の大田市。
後の『石見銀山』(いわみぎんざん)
神屋は博多から宗丹と桂寿という
金属加工専門の職人を連れていき、
精錬技術「灰吹法」を導入して
銀をどんどんつくらせます。

…灰吹法(はいふきほう)とは、
銀鉱石からいったん鉛に溶け込ませ、
さらにそこから抽出する技術。

灰で満たした「るつぼ」の上に
鉛を置き、銀鉱石を置く。
そのるつぼの上に炭を置いて加熱すれば
鉛と銀は溶け合って合金になります。
そこに「ふいご」で空気を吹き付けると
鉛は空気中の酸素と化合して鉛化鉄になり
合金の湯の上に浮いていく。
表面張力が小さいため灰に染みこんでいく。

こうして残るのは、
純粋な銀だけ、ということになります。

と、書いてみたのですが、
どう考えても身体に悪そうな加工法ですね…。
事実、鉛中毒や水銀中毒になった人も多くて、
「30歳」まで生きられた鉱夫は
尾頭付きの鯛と赤飯で
「長寿」の祝いを行ったほどでした。

そんな犠牲を伴いつつ、
石見銀山は(当時の常識からすれば)
爆発的な量の銀を産出していった。
大内氏と尼子氏がこの銀山を巡って
争いましたが、最終的には
「中国地方の覇者」毛利氏が奪います。
毛利氏が織田信長と覇を競えたのも、
この銀山の富が理由のひとつ
なのです。

一時は世界の銀の産出量の
「三分の一」を誇った、
とも言われる石見銀山!
ポトシのセロ・リコ銀山と並んで、
ヨーロッパにもその名が知れ渡るほど。

…こうして銀が大量に流入していった
中国の明王朝、次いで清王朝では、
銀貨が基本通貨になっていきます。
(それまでは銅銭が基本)

1580年に施行された「一条鞭法」という
税制では、人頭税と地税を
まとめて「銀」で納めることになります。
18世紀のはじめには、
人頭税を無くした「地丁銀制」になる。
これも、銀が世の中に広まったからこそ
実施できた税制なんですね。

清王朝は「茶」を輸出していく。
アフタヌーンティーの本場、イギリスは
茶を買うためどんどん銀が出ていく。
銀の流出を防ぐために仕掛けたのが、
そう、インド産アヘンを中国に密輸する
「三角貿易」です。
これに清王朝が激怒して、アヘンを厳禁。
…1840年「アヘン戦争」が勃発します。

いささか駆け足で書いてみましたが、
ポトシのセロ・リコや
日本の石見で生み出された銀が
世界を駆け巡っていき、
ひいては革命や近代化をもたらした…

言えるようにも思います。

最後に、まとめます。

本記事では「銀の世界史」について
色々なことを書いてみました。

銀は光沢を持ち、加工もしやすく、
それでいて灰には溶け込まず、
柔軟に、かつ軸を持って
世界を支え、歴史を動かしてきた金属です。

銀自体に、良いも悪いもない。

生まれ持った性質をどう使うのか、
どう活かしていくのか。製錬していくのか。
生活を豊かにするのか、それとも、
革命につなげるか。戦争に向かうのか。
それは人間次第ではないか…、
と私は思うのでした。

※興味のある方は
祝田秀全さんのこちらの本もぜひ!↓

『いぶし銀』に例えて
田中 伸生さんの自己紹介を
『Inaoなリライト』しています↓

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