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1998年、長野五輪の開会式。

そのエンディングではベートーヴェンの
『第九(交響曲第九番)』
高らかに演奏・歌唱されました。

指揮をしたのは、小澤征爾さん。
言わずと知れた「世界のオザワ」

ここで行われたのは、
「世界の各地と中継でつないで
各々の国で同時に歌い、演奏する」
という、素晴らしい演出でした。

それにしても、1998年、です…!

まだスマホなどは世に普及しておらず、
ようやくインターネットが
使われ始めた頃の話です。
そう、「Windows98」の時代。

あれから、20年余り…。

現在では「世界の各地で同時に」
何かを行うことは
はるかに容易になっていますが、
行き違いやすれ違いによる争いは
ますます激しくなっています。

あの時代に、『第九』が世界で
「同時に」響いたことを考えますと、
その「先進的な試み」の凄さ、
音楽で人を結びつけることへの挑戦が、
否が応でも心に響いてきます。


本記事では、小澤征爾さんの若い頃の
エピソードを書きます。

1935年、満州の奉天生まれ。
お父さんは、23歳で満州に渡った方。
六歳まで、小澤さんは大陸で過ごします。

1941年に帰国。
初めての楽器は、アコーディオンでした。
10歳の時に始めたのがピアノ。
小澤さんはピアニストを志します。

しかし、戦中・戦後の苦しい時期。
ピアノを弾く余裕はなかなかありません。
そんな1949年、小澤さんは
ある衝撃的な演奏に出会った、と言います。

ロシア出身のピアニスト、
レオニード・クロイツァー。

彼は何と、ピアノを弾きながら、
同時に指揮までしていた
のです!
これが指揮者を志した小澤さんの原点。
彼は中学三年生の時に、
母の遠縁の音楽家、
齋藤秀雄さんに弟子入りします。

この齋藤先生が、本当に厳しかった。

(もちろん時代背景もありますが)
指揮棒で叩かれたり
スコアを投げつけられたりするなどの
体罰を日常的に受けた、と言います。
あまりにストレスをためたせいで、
自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、
大怪我をしたこともあったそうです。

しかし小澤さんは、その厳しい指導に
必死に喰らいついていく…。
めきめきとその指揮者としての
腕を上げていきます。

この頃に出会ったのが、山本直純さん。
山本直純さんと言えば、

◆童謡『一年生になったら』
◆TV番組『8時だョ!全員集合』
◆大河ドラマ『武田信玄』
◆映画『男はつらいよ』のテーマソング

このように、お茶の間で親しまれた音楽を
次々に生み出した方です。

彼は、小澤さんに向かってこう言いました。

「音楽のピラミッドがあるとしたら、
俺は、その底辺を広げる仕事をする。
お前は、ヨーロッパへ行って頂点を目指せ!」

1959年、23歳。

お父さんが満州に渡ったのと同じ年齢の時に、
小澤さんは一人でフランスに渡りました。
貨物船にスクーターとギターを乗せて…。
クロイツァーの演奏を聴いてから、
実に10年後のことでした。

目指すは「世界のオザワ」です。
国際指揮者コンクールにいきなり挑戦!
何と、いきなり優勝!

1961年には、レナード・バーンスタインの
ニューヨーク・フィルハーモニックの
指揮者に抜擢されます。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの
弟子を選出するコンクールにも合格!

見事、世界の舞台で自分の実力を
発揮することができたのです。

しかし、好事魔多し、とも言いまして、
1962年、衝撃的な事件が日本で起きます。

「N響事件」です。

NHK交響楽団と、揉めてしまったんです。
人が指揮し人が演奏するものですから、
そこには、感情がどうしても行き交います。
両者の行き違いは爆発してしまい、
ついに小澤さんは

「日本では音楽活動をしない!」

と決めて、主に世界の舞台で
活躍することにしたそうです。
(32年後に和解、1995年に共演しています)

…小澤さんも、若かった。20代後半。
…N響も、寛容的ではなかった。

どちらがどう悪いと言うよりも
すれ違いや行き違いが多くて、

ジグソーパズルのピースがうまく
はまらなかった…
そのように、
私のような第三者からは思えます。

この時、小澤さんを擁護した人の一人、
作家の三島由紀夫は、
以下のような文章を新聞に発表しました。
一部のみ、引用してみましょう。

(ここから引用)

『「日本には妙な悪習慣がある。
『何を青二才が』という青年蔑視と、
もう一つは
『若さが最高無上の価値だ』という
そのアンチテーゼ(反対命題)とである。

私はそのどちらにも与しない。

小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、
いい音楽家だから偉いのである。

もちろん彼も成熟しなくてはならない。
今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、

これはあくまで正しい戦いであっても、
日本のよさもわるさも、
無論理の特徴にあって、
論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。

その孤独の底で、彼が日本人としての
本質を自覚してくれれば、
日本人は亡命者(レフュジー)的な
『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、
彼を追ひやることは決してないだらう」

「私は彼を放逐したNHK楽団員の
一人一人の胸にも、

純粋な音楽への夢と理想が
巣食っているだろうことを信じる。

人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。
日本的しがらみの中でかつ生きつつ、
西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、
その夢が多少まちがっていても、

小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、

この音楽という
世界共通の言語にたずさわりながら、
人の心という最も通じにくいものにも精通する、
真の達人となる日を、私は祈っている」』

(引用終わり)

青年蔑視と若さ至上主義の対立。
国際的芸術家。
日本では論理は孤独に陥る。
世界共通の言語。
人の心に通じる真の達人…。

現在にも通じる部分のある、
「深い」文章ではないでしょうか。

その後、1972年に小澤さんは
盟友である山本直純さんたちとともに、
「新日本フィルハーモニー交響楽団」を結成。
日本では、この新日本フィルでのみ指揮して、
基本、世界の舞台で活躍していきます。

ただ、冒頭に書いたように、
1998年には、長野五輪の開会式で指揮

小澤さんの意識の中には、
「世界」と「日本」を音楽で
どのように結び付けていこうか、
「リンク」させていこうか、

そんな考えがあったのではないでしょうか?

最後に、まとめます。

満州からの帰国、恩師の厳しい指導。
単身での渡仏。
バーンスタインとカラヤンという
国際的指揮者たちとの邂逅。
日本の舞台との決別と、和解…。

「世界のオザワ」は
このようにして、生まれていきました。

『第九』を聴くと、私は
長野五輪の開会式を思い出します。
同時に、小澤さんの指揮も…。

年末には『第九』が
色んなところで響き渡ります。

ぜひ、読者の皆様も、その音色ともに
世界と日本へと想いを馳せてみては
いかがでしょうか?

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