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日本のプロ野球史上の「名将」と言えば?

「そりゃあノムさん、故野村克也監督ですよ!」
「西武ライオンズの全盛期、森監督…」
「カリスマ、長嶋茂雄監督、一択!」
「WBCで大谷やヌートバー達を率いた栗山監督」

…百人いれば百通りの答え。
どのチームのファンかによっても違う。

このうち故野村克也監督は、
古田さん、高津さん、新庄さんなど
多くの選手を育て、後の監督への道を
拓いていった監督として有名です。
栗山英樹監督もID野球のスワローズの一員。
(1回も褒められたことがないそうですが…)

選手としても超一流。名捕手にして好打者。
漫画『ドカベン』を描いた水島新司さんも
野村克也さんを踏まえて、
捕手である山田太郎をメインに据えたほど。

…ただ、ですね。

戦前から戦後にかけての時期、
「超一流の選手で超一流の監督」と言えば、
この人を抜いては語れない。

「川上哲治さん」です。かわかみてつはる!

「巨人のV9時代の監督…でしたっけ?
潤沢な資金で大物が多く、楽だったのでは?」

いや、違います。決して何も考えずに
大量得点で楽勝、だったわけではない。
むしろ彼は細心の準備と管理によって
「守り勝つ巨人」を作り上げた監督。

本記事では、川上哲治さんについて書きます。

まず、彼が打ち立てた記録からいきましょう。

◆日本プロ野球史上初の「2000本安打」達成
◆8年連続シーズン打率3割以上(2位タイ)
◆首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回
◆シーズン通して6三振(最少三振日本タイ記録)
◆監督として、日本シリーズ優勝11回(最多)…


人呼んで『打撃の神様』。ほとんど三振しない。
「ボールが止まって見える」なんて言う人。

めちゃめちゃ打つ。
打球がライナー性でかっ飛んでいく。
彼の打球から『弾丸ライナー』という言葉が
初めて生まれたほどでした。

「赤バットの川上」も有名です。
1946年、銀座の運動具メーカーから
プレゼントされた赤いバットを使用。
これが彼の代名詞に(注:1年で中止)。
ちなみにこのメーカーとの契約が
「プロ野球選手のCM出演第一号」と言われます。
選手たちの社会的地位向上にも一役買っていた。

彼のキャリアを見ていきましょう。

1920年に生まれ、2013年に亡くなった。
熊本県の現在の人吉市に生まれる。
もともと右利きでしたが、
小学校低学年の時に右手を負傷し、
左手を鍛えて、左右両方の手で投げ、
打てるように努力してきた。

熊本県立工業学校(現熊本工)の野球部に誘われ、
進学するも、いったん退学。
野球部のない済々黌、人吉中(現人吉高)を経て、
先輩や先生に説得され、工業学校に復学しました。

彼は篤志家の援助で進学していた。
それなのにキャリアに悩み、退学、転校。
紆余曲折して復学、最終的に野球に打ち込む…。


復学後、夏の全国中等学校優勝野球大会に
2回出場、いずれも準優勝。
負けた時にはポケットに甲子園の土を入れて帰り、
母校の球場にまいた、と言われています。
「甲子園の土」を持って帰った初の事例
負けず嫌い。悔しかったんでしょうね。

1938年、18歳の時には
東京巨人軍に「投手」として入団します。

ところが、プロでは投手としては大成しない。
内野手に転向、打撃一本に絞る。
1939年、史上最年少で首位打者。19歳。
挙げた打点75は、景浦將を抜いて日本記録に!

この頃のプロ野球、巨人軍のエースと言えば
何と言っても「沢村栄治」です。
沢村賞の名前の元になった人。
一方の景浦將は大阪タイガースの看板選手。
「鬪將」「零代ミスタータイガース」。
(漫画『あぶさん』のモデルにもなった)
彼らの名勝負は、おおいに試合を盛り上げる。

…ただ、1939年と言えば、
第二次世界大戦が始まった年。

沢村も景浦も出征、帰らぬ人となる。
川上さんも1942年のシーズン後には
徴兵のために巨人軍を退団します。
1944年入営、立川陸軍航空整備学校の教官になる。
(ちなみにこの時の部下に丹波哲郎がいる)

内地で終戦を迎え、人吉市に帰ります。
家族を養うために農業をしていました。

しかし戦後、GHQの政策もあって
「娯楽としてのプロ野球」が大盛り上がり。
巨人軍は、戻って来い、と言う。その時!

「もし(当時のお金で)3万円を貰えるなら
巨人に復帰する用意があるがどうですか?」

選手のほうから球団に契約金を要求!
史上初めて(この人、史上初めてが多い)。
「三万円ホールドアウト事件」とも言います。

…こうして1946年に復帰した彼は、
1958年に引退するまでに、
巨人軍の中心選手として大活躍する。
1943~1945年を除き、実働18年間。
2000弱もの試合に出場している。

1961年からは、巨人の監督に就任します。
41歳の頃でした。

以来1974年まで、監督を14年間務める。
そのうち1位が11回。日本一も11回。
1位を逃したのはわずかに3回だけ。
特に1965~1973年の「V9」が知られる。

王と長嶋の「ON砲」。捕手の森昌彦。
金田正一や堀内・高橋一たちの投手陣。
柴田・高田・土井・広岡たちの鉄壁の守備陣。
「子どもは『巨人・大鵬・卵焼き』が好き」
と言われたほど、圧倒的な強さでした。

その強さの源は、
「ドジャース戦法」とも呼ばれる
「チームプレー」
にあります。
派手ではない。むしろガチガチの堅実。
打てなくても失点を減らして守り勝つ。

「ON砲」のイメージが強いのですが、
V9巨人は少ない得点を守り勝つ野球です。
日本の「スモールベースボール」の元祖!
それをチームに導入、きちんと管理して、
見事に使いこなしたのが川上監督…。

どことなく2024年の「飛ばないバット」、
「守り勝つ野球」のチームが強かった
夏の甲子園を想起させるような戦い方ですね。

最後にまとめます。

本記事では主に、選手時代と監督時代の
川上哲治さんについて書きました。

彼の引退後、長嶋さんが巨人監督に就任。
ただ、長嶋監督の電撃辞任にかかわり、
長嶋さんと不仲になる。
監督時代には、名遊撃手だった
広岡達郎さんとも不仲になっている。

名将であり、自分のスタイルがあるがゆえに、
同じくマイスタイルを持つ
一流選手たちとぶつかることも多かった…。
(注:いずれも後に和解)

ぶつかること、嫌われることを恐れず、
選手、監督、教育者としても
実績を遺した川上さん…。

王貞治さんの評価を引用して終わります。

(ここから引用)

『野球だけでなくゴルフでも麻雀でも、
とにかく「勝つまでやる人」であった。
大変な負けず嫌いであり、
勝つまでやるから絶対に負けなかった。
その勝利に対する凄まじい執念が
あったからこそ、V9を達成できた』

(引用終わり)

貪欲なほどの執念。マイスタイルを持つ。

賛否両論はもちろんありますが、
これは成功する人が必ず持つ
共通項ではないか…と、私は思うのです。

※広岡達郎さん視点で語る川上さん評はこちら。
決していい人ではないが、悪い人でもなさそう。
愛憎の果ての感謝を語るインタビュー記事です↓

※栗山英樹さん視点で語るノムさん評はこちら。
「1回も褒められたことがない」からこそ
褒められるように頑張ったそうです↓

※日本のプロ野球史はこちらから↓
『時に分かれて、時に合わさる ~プロ野球再編物語~』

※世界的な野球の歴史はこちらから↓
『野球史 ~世界をベースランニング~』

※マニアックな野球のルールはこちらから↓
『ドカベンルール ~決まりを理解する、使う~』

※東京ドームには「野球殿堂博物館」もあります↓

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