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日本史の教科書に出てくる人たち。
陸奥宗光、渋沢栄一、原敬、
田中正造、志賀直哉!


「一問一答方式」的な知識だと、
以下のイメージがあるかもしれません。

◆陸奥宗光(むつむねみつ):下関条約
◆渋沢栄一(しぶさわえいいち):資本主義
◆原敬(はらたかし):大正デモクラシー
◆田中正造(たなかしょうぞう):足尾銅山
◆志賀直哉(しがなおや):小説家

…詳しい方なら、
こんな感じで語れるかも?

「陸奥宗光は『かみそり陸奥』とも呼ばれ、
日清戦争、下関条約などの外交を指導した
キレッキレの外務大臣!

渋沢栄一は、大河ドラマ
『青天を衝け』の主人公。
元は幕臣、徳川慶喜の家臣でした。
日本の近代資本主義の父。
今度、一万円札の顔になる。

原敬は、大正の米騒動の後の首相。
『平民宰相』と呼ばれる。

田中正造と言えば、足尾銅山鉱毒事件
世に知らしめた人です。
『公害』の危険性を世に訴えましたよね。

志賀直哉は…文学者?
『白樺派』の中心人物の一人で、
『暗夜行路』などを書いた人?」

ええ、その通り!

…ただ、ですね。この一見ばらばらな
五人の運命に関わった人がいる。
でも何をした人かはあまり知られていない。

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)。
1832年生まれ、1903年に亡くなった人。

「ふるかわ…。確か古河財閥の創始者で、
鉱山を経営した人、ですか?
ああ、それで田中正造と関わりが。
でも、陸奥宗光や原敬、志賀直哉と
どんな関係があるんでしょうか?」

本記事では、この
古河市兵衛という男を「補助線」にして、
賛否両論入り混じる日本の近代化の
一側面を書きます。

1832年と言えば江戸時代。
「天保の大飢饉」が起こった年。
天保の改革、大塩平八郎の乱の頃。
古河市兵衛はこの年に京都で生まれました。

元の名前は、木村巳之助

庄屋の家の生まれでしたが
父の代に木村家は没落しています。
巳之助少年は、街で豆腐を売り歩いて
家計の足しにしていた…。

その後、継母が病気となり、
実家の盛岡から叔父が見舞いに来る。
この叔父さんが高利貸しを営んでいた。
巳之助、盛岡に商売の修行に出ます。
1849年、ペリーが来日する前。

1857年に彼は京都に戻り、
この叔父さんの口利きで
京都の商人「小野組」の番頭、
「古河太郎左衛門」の養子になります。

ここで「古河市兵衛」と改名する。

…商才があったんでしょうね。
養父とともに幕末の動乱の京都で、
頭角をあらわしていきます。

1868年、明治維新。
時代の変わり目の流れに乗る!
生糸の取引などで、巨額の富を得ます。
しかし小野組は新政府の公金の取扱いを
引き揚げられ、大打撃を被る。

「…引き揚げるのはいいんですけど、
ちょっと減額してくれません?」

彼は、新政府に交渉をしに行きます。
この交渉相手が、陸奥宗光だった。

陸奥宗光。

かの有名な坂本龍馬の海援隊の出身。
維新後には政府を牛耳る薩長閥の中で、
西南戦争のあおりを喰らって投獄されます。
出獄後は欧州に留学、外交などを学ぶ。
1890年の衆議院議員選挙で初当選…。

このキレッキレの「かみそり陸奥」の下に、
元幕臣の渋沢栄一や東北出身の原敬など
そうそうたる才能が集まります。
己の能力のみで道を切り拓く人たち…。

同じく己の能力で道を切り拓く市兵衛と
陸奥は波長が合ったんでしょう。
龍馬の影を見たのかもしれない。
実子が(当時)いなかった市兵衛に、
後に陸奥は次男の潤吉を養子に出しています。
子どもを預けるほどの盟友になる。

また、小野組とつながりのあった
渋沢栄一の第一銀行に対し、
市兵衛は小野組の資産や資材を提供します。
第一銀行の連鎖倒産を防いでいる。

そう、市兵衛は、陸奥や渋沢、つまり
政界や財界の大物と親交を結んで、
自らのビジネスを大きくしていった。

じきに小野組は破綻しますが、
彼は自分自身で事業を始めます。

目を付けたのは「鉱山事業」でした。

1877年(明治10年)に足尾銅山を買収!
東北の名門、相馬家を
買い取りの名義人とします。
相馬家、市兵衛、渋沢栄一が共同出費。
この相馬家の家令(執事)が
志賀直道。…志賀直哉の祖父です。

足尾銅山は江戸時代のはじめから
採掘されていた鉱山でしたが、
この頃には「出し殻」のような状態、
生産性が低い、と評価されていました。
だから民間に払い下げられた。

…しかし、市兵衛の目には
再生の可能性が見えていた。

近代技術を駆使して、鉱脈を探る。
立て続けに有望な鉱脈が発見されます!
日本有数の大銅山に成長。
富国強兵。近代化政策。
その中で「古河財閥」が形成されていく。
市兵衛は「銅山王」と呼ばれました。

…しかし、この足尾銅山で、
「鉱毒事件」が起こってしまう。

陸奥宗光と同期、
1890年の選挙で当選した
栃木県の田中正造が鉱毒の問題を調査し、
国会で質問しました。
1891年、国会で田中の質疑に
陸奥宗光が答えています。

(陸奥は1897年に病没)

対応の遅い政府に業を煮やして、
1901年、田中は議員辞職をした上で、
議会から戻る途中の明治天皇に
直接、直訴を試みる。

鉱毒事件が世の中に知られていきます。

心労の中、1903年、市兵衛は死去…。
古河財閥を継いだのは、
そう、陸奥の次男、古河潤吉でした。
潤吉は、副社長に陸奥の腹心、原敬を起用。

…しかし潤吉は1905年に36歳で死去します。

財閥は、晩年に生まれた市兵衛の実子、
古河虎之助へと受け継がれたのです。

なお、志賀直哉は1901年に
鉱毒事件を知り、衝撃を受けて、
現地に視察に行こうと試みます。
しかし、祖父の直道が共同経営した
経緯があることから、父親は反対。
以後長い間、父親と「不和」になります。

1917年にようやく「和解」。
この経緯を書いたのが小説『和解』です。
「小説の神様」である志賀直哉も
足尾の事件、父との葛藤が無ければ
生まれていなかったかも…。


この翌年、1918年には米騒動が起き、
原敬が首相に就任しています。

最後にまとめます。

本記事では、明治~大正の有名人たちを
「古河市兵衛」という稀代の商人を
補助線としてつなげてみました。

富国強兵の掛け声の下で、
近代化へと邁進した日本…。
銅山開発を「光」と見るか、
公害拡大の「影」と見るかによって、
市兵衛の評価も変わります。
光も影もあるのが、人の世ですから。

ちなみに、古河財閥は戦後に
財閥解体で分裂しますが、
グループ会社は今も多く残っている。
『みずほ銀行(フィナンシャルグループ)』
『横浜ゴム』『朝日生命』など。

1923年に古河電気工業とシーメンス社が
「ふ」と「し(じ)」の頭文字を取って
設立した富士電機製造株式会社。
これが今の『富士通』の前身です。

ばらばらに見える人物、会社でも、
調べてみるとつながっている…
という記事でした。

※東京都の北区には古河虎之助がつくらせた
「旧古河庭園」があります↓

※「かみそり陸奥」「かみそり大臣」
などの異名を受けていた
陸奥宗光については、こちらの記事もぜひ↓
『龍馬亡き後の陸奥 ~実は波乱万丈~』

※古河市兵衛の生涯については、
以下の書籍があります。
◆『小説・古河市兵衛:
古河グループを興した明治の一大工業家』

◆『運鈍根の男―古河市兵衛の生涯』

これらの小説によれば、
陸奥宗光、渋沢栄一、古河市兵衛は
「三本の矢」のような間柄で、
陸奥宗光がグランドデザインを描き、
渋沢栄一が実行計画を練り、
それを古河市兵衛が実行する…
という関係だったそうです。
(「CEO」「CFO」「COO」のような
関係でしょうか)

※なお、石炭も「日本の近代化」には
欠かせない資源でした。
蒸気機関車のエネルギー源ですから。
「常磐炭田」についてはこちらも↓
『いわき市にもあった笠間藩領の話』

合わせて、ぜひどうぞ!

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