見出し画像

Yuko Takakubo さんに、『歴史と地理(ヒスとジオ)』を読んだご感想をいただきました!

私のエッセイ『歴史と地理(ヒスとジオ)
~いなお四十話』
は、
歴史と地理に関するこれまでの
さまざまなSNSでの投稿を
まとめた本です。

とてもありがたいことに、
お読みいただいたご感想をいただいたので
ご本人の許可を得て、引用紹介いたします!

(ここから引用)

『面白く楽しませていただきました。
少し長くなり恐縮ですが、
以下、読ませていただいた感想です。
歴史と地理、~いなお四十話~を拝読しました
この本を読み終えて、地理と歴史が、
自分自身の日常に、また全ての人の
社会活動に活かせる可能性を
初めて感じることができました。
私は、まさに学校で学ぶ教科の
ひとつとしてしか捉えていませんでした。
もし、教科以上に興味を持てば、
さらにそこから発展するのは、
研究的な学術もしくは趣味。
少なくとも私にとっては、
その両者にもなりえていません。
地理と歴史については、
実際に使えてこその実学だという意図が、
はじめは腑に落ちていませんでした。
読み進めるうちに、地理、歴史を
様々な切り口から、実際の生活に落とし込み、
また、詳細な描写やエピソードから
先人に思いをはせていく。
その作業の一つ一つを終える度に、
自分自身を思い返し、
場所、状況、人物、時代背景など、
「もし〇〇だったら」を頭の中でイメージする。
疲れる作業ではありますが、
想像することが思考のストレッチとなり、
それが実学として学ぶべき意義を
身をもって実感した経験となりました。
さらに、全て読み終えてみて、
自分自身が一貫して受け取ったことがあります。
それは、私たちが触れる
全てのモノ・コトに対し、
疑ってみること、想像してみること。
ここでは、誰かが書いた文章には、
作者自身のフィルターとともに、
作者自身が想定する相手に関する
フィルターがかかっている。
つまり「濾過」されている
状態であると書かれています。
歴史も地理も、教科書にも載るような
事実であるはずの両者は、
実はともに短縮と単純化した状態のもので、
作成者の環境や状況、想いによって
「濾過」された状態。
まさに、ここでも言われていたような、
例えば自分史を書く上での
「白歴史」「黒歴史」について、
曖昧な評価基準で判断したり、
誰による判断かで
簡単に白か黒かでさえひっくり返ったりする
オセロと似ているということに通じます。
その場所がその特徴を持つに至った背景、
その人物がその行動をとった背景など、
事実として書かれたことの
裏にある想いも想像し、感じ取ることで
はじめて、それを倣うべきか、
繰り返すか否かの選択も可能になり、
活かせるものとなります。
さらにいうと、自分が感じるもの全てに
通じるのではないかとも思いました。
自分という意思を持った人間の
フィルターを通した目や耳で見聞きしたもの、
相手の環境や背景、
想いを通して放たれた言葉など。
それらに対しても、
疑ったり想像したりしなければ、
本当の意味で自分の中に落とし込むこと、
活かすことはできません。
そう考えると、こちらの言葉を借りると、
本質的には全て「物語」だということ。
この「物語」という表現は、
「つくりもの」などの表現とは違い
美しく感じました。
歴史と地理を漫画のように
楽しく紹介する読み物だと思っていた私は、
とてもいい意味で裏切られました。
特に自分が触れてこなかった地理については、
少なからず興味も持つようになりました。
そして、日々受け取る情報に対しても、
想像力をもって受け取るようになりました。
以上です
地理、歴史に対する見方が変わる本だと思います。』

(引用終わり)

Yuko Takakubo さん、
お忙しい中にもかかわらず、
素晴らしいご感想をいただき恐縮です
&とても嬉しいです!!

歴史と地理を実用することで、
世界の様々な事象が深掘りでき、
ご自身の時間的・空間的な立ち位置が
明確になるように思います。

もし、興味を持たれた方は、
閲覧用PDFをココナラ上で販売中です。

上記のリンクから、ぜひ。

よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!