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天狗と言えば鼻の高い、人を超越した者!
赤ら顔、山伏の恰好で葉っぱを持って、
空を飛んだりするイメージ…。

しかし江戸時代の末、幕末には
「天狗」が各地に現れました。
と言っても、本物の天狗ではない。
「水戸天狗党」です。

本記事では、この天狗党の争乱を
書いてみたいと思います。

そもそもは水戸藩の第九代藩主に、
徳川斉昭(なりあき)
就任したところから端を発しています。
斉昭の兄、第八代藩主の斉脩(なりのぶ)は
子どもが無いまま、1829年に死去。

弟である斉昭の他に、
もう一人、後継者候補がいた。
幕府の将軍、家斉の二十番目の子、
斉彊(なりかつ)でした。

…藩主の弟か? 将軍の子か?
改革派は「藩主の弟」斉昭を推す。
保守派は「将軍の子」斉彊を推す。
後継者争い!

保守派から言わせれば、財政難の水戸藩を
幕府・将軍との結びつきを深めて
援助してほしい、という思惑がある。
国からの補助金を狙うようなもの。

しかし改革派から言わせれば、
水戸藩には水戸藩の流儀がある。
第二代光圀以来の『大日本史』編纂も。
いくら将軍の子でも、
ヨソモノが藩主になるのはちょっと…!

そこで改革派の藤田東湖(とうこ)たち、
学者や下士層の四十名余りが
「無断で」江戸に上り陳情。
大騒ぎ!
斉脩の死後に「遺書」が見つかり、
改革路線の斉昭が第九代藩主に就任。

…当然、保守派は面白くない。
恨みが残りますよね。

藩主斉昭と東湖たちは、改革を進める。
「水戸の三田」と呼ばれた
藤田東湖・戸田忠太夫・武田耕雲斎!
斉昭の学問の師、会沢正志斎!
家老の安島帯刀! 彼らが、チーム斉昭。

…しかし、斬新な改革をやり過ぎた。
斉昭は1844年に幕府から
強制的に隠居させられます。
東湖たちも失脚。
その裏には、保守派たちの陰謀も
あったのではないか?

第十代藩主に徳川慶篤(よしあつ)が就任。
保守派の結城朝道(寅寿)が
実権を握り、藩の政治を牛耳ります。

…当然、改革派は面白くない。倍返しだ!
1847年、結城は老中の命令で失脚させられ、
後に慶篤暗殺を企てた疑惑で、獄死します。

1849年に復権した斉昭は「尊王攘夷の親玉」
「水戸のご隠居」として、勢威を奮う。
自分の子どもの慶喜(よしのぶ)を
幕府の将軍にしようと画策する。
1853年黒船来航、世の中が騒然とした時。

ここに立ちはだかるのが、そう、井伊直弼!

慶喜は十四代将軍の座に着けなかった。
斉昭腹心の藤田東湖・戸田忠太夫は、すでに
1855年に安政の大地震で死去していました。

1858年、幕府は日米修好通商条約に調印。
これに対して、朝廷は
勝手に条約を結んだ幕府ではなく、
尊王攘夷の「水戸藩」に向けて
直接、勅書(命令書)を出します。

これ、とんでもないことなんです。

江戸時代は、江戸幕府が頂点。
なのに幕府を飛び越えて、
朝廷が水戸藩に直接の命令を出すとは!
『戊午(ぼご)の密勅』という大事件。

幕府としては捨ておけない!
井伊直弼は「安政の大獄」を断行する。
家老の安嶋帯刀は、切腹処分。
斉昭は水戸で永蟄居、藩主慶篤は差控…。

当然ながら、斉昭派・改革派は怒ります。
ただ、改革派の中でも分裂騒ぎになる。
武田耕雲斎たち過激派は
「勅諚を返さない」派。
会沢正志斎たち穏健派は
「勅諚を返す」派。
もめにもめる。城下で斬り合いが起こる。
返納を阻止すべく、過激派が集まる。

そのうち、過激派の一部が脱藩して
江戸で起こした事件が…。
そう、1860年「桜田門外の変」です。

ここまでをまとめてみましょう。

◆斉昭サポーターの「改革派」
◆門閥や秩序重視の「保守派」
◆改革派も「過激派」と「穏健派」に分裂

色んな派閥ができた。
さらに同年1860年、斉昭が死去。

重しが無くなった斉昭サポーターたちは
改革派、いや尊王攘夷の「天狗党」として
さらに過激になる。

『一般の人々を軽蔑して、
批判に対しては謙虚でなく狭量だ。
「鼻を高くして」偉ぶっている!』

保守派の視点から見れば、
社会破壊の成り上がり者、クレージー。
天狗になっていやがる!という呼び名。
しかし生前の斉昭は彼らを擁護して、

『江戸では高慢な者を「天狗」と言うが、
水戸では「国家に忠誠心のある有志」の
ことを「天狗」と言う』

そう強弁していた。…その斉昭も、消えた。
藩政は混乱を極めます。

チーム斉昭で残る大物は、
『水戸の三田』の一人、武田耕雲斎です。
折りしも、長州藩が幕府に対して
「攘夷を実行しろ!」と要求していた。
一橋慶喜は風雲の京都へ向かう。
水戸藩士たちも、それについていく。

…ところがですね。

翌1863年、会津藩・薩摩藩などが結託、
長州藩を京都から追い出した。
「八月十八日の政変」です。
(これが引き金となり、1864年には
長州藩が京都で兵を挙げて壊滅する
「蛤御門の変」が起きたりします)

追い払われた長州藩に代わり
志士たちが頼りにしたのは?
…尊王攘夷の本家本元、水戸藩です。

特に、藤田東湖の四男、藤田小四郎は
「天狗党」の中でも過激な男。
1864年、筑波山で挙兵!
幕府に実力で横浜港の閉鎖を迫る。
攘夷こそが亡き前藩主斉昭の遺志だ!と。

対抗して、藩内の保守派たちは
「諸生党」を結成します。
天狗党の挙兵は、
亡き前藩主斉昭の遺志に背くものだ!と。
天狗党を排除しようとする。

正義と正義のぶつかり合いです。

武田耕雲斎は小四郎を説得しますが、
逆に「首領になってくれ」と要請される。
やむなく天狗党の首領になりました。

この天狗党は、各地を転戦。
統制が取れていない。荒らし回る。
じきに斉昭の子の慶喜を
新藩主にするために西上!
京都へと向かいます。

しかし、頼みの綱の慶喜は。

天狗党討伐のために、
諸藩の兵を率いて待ち構えていた。

京都に入れない。
天狗党は越前(福井県)の敦賀に向かう。
…慶喜が幕府軍を率いていることを知った。

絶望もあって、降伏します。

対応した加賀藩は
丁重に扱ってくれましたが
じきに幕府軍に引き渡され
ニシン蔵に閉じ込められて、
約800人のうち、約350人ほどが
1865年に斬首。

水戸では、諸生党の指導の下、
天狗党の家族たちが処刑される…。

天狗党の挙兵は
失敗に終わったのでした。

最後にまとめます。

本記事では天狗党の争乱を書きました。

…ですが、よく考えると、その後、
戊辰戦争、明治維新になりますよね。
江戸幕府が倒れる。

天狗党の残党、耕雲斎の孫である
武田金次郎は斬首を免れ、
謹慎処分になっていましたが、
後に東に向かった。

1868年、水戸藩庁を押さえた金次郎たち。
倍返しの「復讐の天狗」と化していた。
保守派、諸生党の残党や家族たちに
徹底的に報復していく…。

派閥争いの果てに
主要な人材を失った水戸藩は、
明治の新時代、なかなか
力を持つことができなかった。

天狗党の争乱、水戸藩の内乱は、
「人を超越したもの」とは言えません。
人間らしい愛憎が渦巻いた
幕末史の一ページ、なのです。

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