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鎌倉時代は「鎌倉」が主な舞台です。
江戸時代は「江戸」が幕府の城下町。

…それに比べて室町時代は、
関東地方はいまいち目立ちませんよね。

◆「足利尊氏が京に上った」
◆「鎌倉府が置かれた」
(この間は??)
◆「後北条氏が関東地方を斬り取った」
◆「徳川家康が江戸の街を築き上げた」

室町幕府が「京」に置かれて、
鎌倉や関東はちょっと
「置き去り」にされたような恰好です。
「足利義満」「応仁の乱」などは
関西、京を主な舞台にしている。

何か、断片的な情報だけが頭にあって、
どんな動きがあったのか、
よくわからない方も多いかと思います。
私も、そうでした。

そこで本記事では、
私が調べ直したものも含めて
室町時代・戦国時代のあたりで
関東地方がどんな感じだったのか

ざっくり書いてみたい、と思います。

まず、年代・年号を。

◆イチミサンザン 鎌倉幕府
1333年、鎌倉幕府、滅亡
◆イザミヤこへと 足利尊氏
1338年、足利尊氏征夷大将軍
◆イザクニまとめる 足利義満
1392年、足利義満南北朝合一
◆ヒトノヨムナしい 応仁の乱
1467年、京都で応仁の乱
◆イッコクマルく 治める秀吉
1590年、秀吉天下統一(後北条氏滅亡)

このあたりの話です。

…先に『鎌倉府』と書きましたが、
これは、鎌倉幕府を滅ぼさせた
後醍醐天皇の「建武の新政」
一環として、鎌倉に置かれたものです。
元々は「鎌倉将軍府」と呼ばれていた。
皇子の成良親王を、下向させた。

鎌倉幕府は「六波羅探題」を京に置いて
朝廷や公家を見張っていましたが、
その逆、リベンジなんですね。

鎌倉が京の幕府に歯向かってこないように、
統治させる。

後に足利尊氏が京で実権を握ると、
尊氏は自分の子の足利基氏を鎌倉に派遣。
「鎌倉府」となります。
長官は「鎌倉公方」(鎌倉の将軍)。
その下の「関東管領」が代々補佐する。
関東管領を任ずるのは、京の幕府。

それぞれ、鎌倉公方は足利氏、
関東管領は上杉氏が、代々後を継ぎます。

要するに、

◆鎌倉公方:関東地方で一番偉い人(足利〇〇)
◆関東管領:それを補佐する人(上杉〇〇)

こういう図式になったんです。

…ところがですね、この、
鎌倉公方と関東管領、じきに仲が悪くなる。
支店を任されたオーナー社長の一族と、
本店の本家の大企業をバックに持つ
野心家の専務の一族が
相争うようになるような感じ
、です。

1438年、永享の乱、が起こる。
えいきょうのらん。
これが関東地方に、大きな影響を与えた。

その背景を説明しましょう。

1409年、鎌倉公方に第四代の
足利持氏が就任します。
若干、11歳くらい。
関東管領、上杉氏憲(後の禅秀)
補佐を受けて、政治を行っていきます。

…ところが、何かと口出ししてくる
禅秀に対して、鎌倉公方の持氏は
いらいらしてくる。
若い社長が、口うるさい専務に
いらいらするのと同じ。

1415年、関東管領の上杉禅秀は、
辞めさせられます。
その翌年、禅秀は持氏に対して、
反乱、クーデターを起こす!

これが「上杉禅秀の乱」

何と鎌倉公方である持氏は、
鎌倉を追い出されます(逃げる)。
京の幕府はびっくり仰天、
逆賊である上杉禅秀の討伐に向かう。

1417年、禅秀、滅亡。

以後、関東管領の座は、同じ上杉家でも
禅秀の流れとは異なる
「山内上杉家」が幕府の威光を背景に
独占するようになりました。

…しかしこの山内上杉家の関東管領とも、
鎌倉公方の足利持氏はケンカをするんです。
社長が、新しい口うるさい専務に
いらいらするのと同じです。
ひいては、その背後の幕府とも対立する。

1437年、関東管領の上杉憲実を、
持氏が暗殺する、という噂が流れます。
一触即発。ついに合戦になります。

これが、1438年「永享の乱」なのです。

その結果、幕府の支援を受けた
上杉憲実は、足利持氏を攻め滅ぼします。
時の室町幕府の第6代将軍は足利義教
「プレ織田信長」とも言うべき
恐怖政治を行っていた将軍です。
幕府に逆らった持氏を、許さなかった。

鎌倉府、滅亡。

…ところがですね、
この京の第6代将軍、足利義教、

1441年に家臣に暗殺されてしまう
(室町時代、けっこう血なまぐさい)

そのため、鎌倉府再興運動が起きまして、
足利持氏の子ども、足利成氏
第5代の鎌倉公方に就任しました。
補佐するのは、山内上杉家の上杉憲忠

…そろそろごっちゃになってきましたか?
ちょっとここまでをまとめてみます。

◆鎌倉公方(足利)と関東管領(上杉)
◆足利持氏 VS 上杉禅秀
◆禅秀が敗死、山内上杉家が台頭
◆足利持氏 VS 上杉憲実
◆持氏が敗北、死亡

要は、足利家と上杉家の争いです。

こりゃ、収まるわけがない。
怨念が、渦巻いている。

新しい鎌倉公方の足利成氏と、
新しい関東管領の上杉憲忠も、
次第に対立していきます。

1455年、憲忠は、成氏の命令によって
謀殺されてしまう
のです。
享年22歳。

はい、ここからもう、
ぐっちゃぐちゃの戦乱の始まりになります。
1455年から、1483年まで三十年近く続く
「享徳の乱」きょうとくのらん、の始まり。

…1455年?

そう、ヒトノヨムナしい応仁の乱、
1467年よりも一足早く、
関東地方では戦国時代に
突入した
、と言ってもいい。

この後の詳しい内容はとても書けないので
はしょってしまいますが、

この争いの中、鎌倉府は分裂して
茨城県古河市の「古河公方」
伊豆半島の「堀越公方」とに分かれる。
そこに関東管領の「山内上杉家」が絡む。

三国志状態です。

かつ、上杉家の分家である
「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」が、
太田道灌(どうかん)という名将の活躍で
勢力を伸ばしていきます。
道灌は、江戸城を作った人ですね。

四国志状態…!

これに各地の武士たちが加わって
もうしっちゃかめっちゃかです。
「きょうとく」の乱なのに
「誰トク」の乱か、分からない。
今日、得をした武将が
明日には滅びている…。

ただ、戦乱もいつしか
終息していくものです。

1483年、和睦が成立
いったん、享徳の乱は終わります。

しかし、関東地方に残った
火種はまた炎上していき、
『本店』の京都でも
応仁の乱が起きていて、

全国的な戦国時代へと
突入していくのです。

じきに、北条早雲とその子孫、
いわゆる「後北条氏」が出てきて、
『関東地方の覇者』となっていきます。

(関東管領家を継いだ、越後の
上杉謙信に攻められたりはしますが…)

以上、本記事では、
知られざる(あまりに複雑で
なかなか知られない)
室町時代の関東地方の歴史を、
私なりに取捨選択して書いてみました。

読者の皆様の組織では、いかがですか?
怨念は、渦巻いていませんか?
戦乱、起きていませんか?

「享徳の乱」については、こちらもぜひ。

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