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京都三条の菓子司、寛永堂(かんえいどう)

寛永7年(1630年)に創業しました。
2024年現在、約400年の歴史を持つ老舗!
創業の地は福岡です。
近年になって京都に本店を移し、
全国各地に支店を持っています。

その支店の一つが東京の青山店
ホームページを見てみますと…。

(ここから引用)

『寛永堂の和菓子は、飾り気がありません。

からだに優しい滋味溢れる素材で、
心まで満たしてくれる本物の美味しさを、
お届けしたいと思っております』

(引用終わり)

この寛永堂が使用している
「からだに優しい滋味溢れる素材」の
一つが『黒豆茶』です。

黒豆の故郷、丹波で自家焙煎した黒豆茶を
水の代わりに使用して和菓子をつくる…。
そう、黒豆と言えば、やはり
「丹波篠山」が有名ですよね!

例えば『黒豆茶羊羹』

丹念に淹れた黒豆茶の香ばしさと、
小豆の豊かな甘みのコラボ…!
清々しく、きりりとした甘み…。
ホームページを見ているだけで、
もう、食べたくなる私がいます。

…ただ、青山と黒豆を結ぶ「絆」、
つながり
については、実はあまり
知られていないのではないか?

本記事は丹波篠山の「黒豆」と
東京の「青山」のつながりについて
私なりに書いてみよう、と思います。

さて、ここで問題です。
東京の青山は、なぜ、青山なのか?

「…青い山があったから?」

ブルーマウンテン?
違う、そうじゃない。

答えはひどく単純で、
「青山さん」が住んでいたからです。
いつから? 江戸時代の前のあたりから。

場所を確認しましょう。

東京駅が東、新宿駅が西にある、とすれば、
その中間地点は「市ケ谷」や「四ツ谷」です。
四ツ谷駅の南には「赤坂御用地」があり、
その西に「明治神宮」。神宮球場もある。

青山は、その南のあたりの一帯です。
山手線内のど真ん中の、ちょっと南…。

「青山忠成(ただなり)」という武将がいます。
彼が『青山』の名前の由来。
1551年~1613年。
1543年~1616年の徳川家康とは
ほぼ同年代、約8歳年下です。
若い頃から家康のそばに仕えていました。

家康に信頼されていた。
第二代将軍になる徳川秀忠の
傅役(おもり役)を命じられたほど。
家康が関東に入った時には、
「江戸町奉行」に任じられる。
今で言えば、東京都知事くらい偉い。

そんな彼が、青山の地を中心にした
広い屋敷地を家康から拝領したんですね。
青山の地名は、彼の屋敷地の一部が
あったことから名付けられた。


青山家は安泰、
江戸幕府でもずっと重鎮として大活躍…の
はずでしたが、いや、そうはいかなかった。

この忠成の次男、後継者が
青山忠俊(ただとし)。
彼は、相手が将軍であろうと容赦しなかった。
たびたび苦言を呈するんです。飾らない。
あまりに口うるさいがため、
何と忠俊、三代将軍の家光に嫌われて、
1623年に老中をクビ、改易になる…。

つまり、青山家は没落するんです。

ただ、忠俊の長男、宗俊(むねとし)が、
1634年に許され、三千石の旗本になる。
そこからちょっとずつ石高を増やし、
1662年には大坂城代に。
この頃、五万石の大名に復帰!

◆青山忠成:家康の腹心、青山の地名に
◆青山忠俊:口うるさすぎて改易される
◆青山宗俊:父の失敗を挽回して大名に

絵に描いたようなV字回復!
この宗俊の次男が青山忠雄(ただお)
三男が忠重(ただしげ)です。

青山忠重の代、1702年に、
青山家は『丹波亀山藩』を任されます。
忠重は領内の農業振興の一環として
「小豆」に目を付ける。

「…上様、丹波の亀山で採れた
極上の小豆でございます!」

当時の五代将軍、徳川綱吉に献上。
これが綱吉の心をズキュゥゥーンと捉えた。
さらに綱吉は朝廷に献上。
朝廷も大喜びして、小豆に名前をつけた。

『大納言小豆』の誕生です。

(もっとも、青山忠重の官職は
大納言ほど高くなく従五位下で、
将軍綱吉は大納言よりも上でしたが
それはそれとして)

さて、青山家はその後も代々続く。
忠重から俊治忠朝とバトンタッチ。
1748年、この青山忠朝(ただとも)の代に、
『丹波篠山藩』へと国替えになるんです。
(ようやく篠山が出てきた…)

◆青山忠重:丹波亀山の『大納言小豆』
◆青山忠朝:丹波篠山藩に転封

この忠朝のあとも、忠高、忠講、忠裕
青山家は続いていきます。

第四代の丹波篠山藩主、青山忠裕。
あおやまただひろ(ただやす とも言う)。
はい、この人が凄かった!

寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代、
幕府の要職を総ナメにしていく。
よほど政治力があった人なんでしょう。
文化元年(1804年)、ついに
老中に就任、30年以上も勤め上げる。
文化文政時代、いわゆる
「化政文化」のあたりの偉い人。

…ただ、ご先祖様の青山忠俊、
口うるさくて家光に改易された人の
家風が残っていたのでしょうか?
時の十一代将軍、徳川家斉に諫言をしています。
家斉は、自分の父である治済に
『大御所』という尊号を与えようとしますが、

「上様、そんな先例はありませんぞ…!
亡くなった方にならともかく、
まだ生きている方に追尊することは
不可能でございます!」

そんなことを言っても改易はされず、
老中を続けていった忠裕…。
政治力に満ちあふれた人だったようです。

このやり手の青山忠裕が、
丹波篠山の「黒豆」をプロデュースした。
江戸時代には「時献上」といって、
大名が領内の産物を
幕府に献上するならわしがありました。
(亀岡の『大納言小豆』もそうです)

1831年、忠裕は波部六兵衛に命じ、
よりすぐった良い黒豆を農民に配って、
黒豆の品質改善に努めました。
彼の後、1846年と1856年、黒豆を幕府に献上。
これで「幕府公認」いわゆる
「公式」の名産品になったのです。

…しかも忠裕、キャッチコピーまで作った!

◆『黒豆の煮汁を飲めば咳が止まる』

体に良い。咳止めになる。
しかも、美味しい…。
こうして「丹波篠山の黒豆」
揺るがぬブランドとなり、
ひいては現在、寛永堂の和菓子にも
使われている…というお話なのでした。

最後にまとめます。

本記事では青山と黒豆の絆について、
えんえんと続く青山家の
歴史とともに書いてきました。

江戸の将軍様に対して、
時には腹心となり、
時には諫言し過ぎて改易、
後には老中まで輩出した名門、青山家…!

なお、青山忠裕の孫の忠誠(ただしげ)は、
明治時代、東京赤坂(青山の隣)に
上京するよう丹波篠山の若者に促します。
この流れで「社団法人 篠山育才会」ができる。

現在でも、兵庫から上京してくる
学生のための寮、
「尚志館」を運営しています。

丹波篠山の黒豆が都に出て
美味しい和菓子と成ったように、
この尚志館からは
大勢の俊英が巣立ち、全国各地で
「まめまめしく」働いているのです。

ぜひ読者の皆様も、青山を訪れる際には
黒豆の和菓子に
舌鼓を打ってみてはいかがでしょう?

※「寛永堂」のホームページはこちら↓

※「寛永堂」のおすすめのお土産はこちら↓

※丹波篠山は「お酒」「杜氏」も有名です↓

※「尚志館」のホームページはこちら↓

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