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夏目漱石:クリエイター・バーサーカー伝説

「夏目 狂セリ」

イギリスに留学していた夏目漱石
(本名は違いますがこの記事では漱石で統一)
が発狂したという電報が、日本に届いた。

「これは大変だ、日本に連れて帰れ」

本国から指示が飛び、
急いで漱石は帰国することになった。
実際に会った人の話では、それほど
大変な事態ではなく、電報は大げさな
誤報だったことになっている。

しかし、夏目漱石が英国留学で
精神を病み、そのあとの生涯でも
しばしば常軌を逸した行動を取っていた、
ということには、複数の証言がある。

夏目漱石、なつめそうせき。
1867~1916年。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』など
名作を世に残した「明治の文豪」だ。

偉大なる創作者、クリエイター。
と同時に、精神が崩壊しかねないほどの
苦悩と戦い、その戦いを文章にして
後世のたくさんの読者に影響を与えた
バーサーカー=狂戦士のように
私には思える。

漱石の英国留学は、小説家となる
前の話である。
ここで彼は、世界の最先端をゆく
イギリス、偉大なる大英帝国を見た。
そのあまりにも大きな
(その当時の)日本との格差に、
打ちひしがれるような思いだったろう。

「もっとも不愉快な二年なり」

漱石は、後に留学時代を評して
このような言葉を残している。

留学中、学術研究の報告書を出すように
文部省から連絡が来た。
『英語研究』が彼のミッションである。
しかし彼は「英語研究の目鼻もつかないので
報告しろといっても報告することがない」
と、そのまま連絡した。
すると「それでも出してもらわないと困る」
と返信が来る。
漱石は、白紙の報告書を提出した、という。
「報告することがない、と言っただろ!」
という態度である。

適当にごまかして書き、
対応することができない性質。
晩年、国から「文学博士」の
称号を与えられそうになった時も、
辞退しているのだ
(この時は、周囲が気を利かせて
国は与えたつもり、
本人はもらっていないつもり、という
奇妙な対応で決着している)。

話を戻そう。
結局、夏目漱石の発狂騒ぎは
誤報であるように落ち着いたが、
実際に彼の精神にダメージを与えたのは
確かだと思う。

帰国後、彼は高浜虚子の勧めで
小説を書くようになる。
精神のリハビリも兼ねて。
これが「吾輩は猫である」である。
その後の「小説家」「文豪」夏目漱石の
活躍は、有名だ。

しかし、その裏には、
個人と国家、日本と欧米、伝統と開化、
その大きすぎる難題に
ともすれば押しつぶされそうになる
人間がいたのではないか?

そう考えた時、彼が残した
大いなる作品群が、精神上の闘いの
戦場であり結晶である
ように、
私には思えるのである。

◆夏目漱石(夏目金之助)の生涯に関しては、
香日ゆらさんの漫画
『先生と僕 ~夏目漱石を囲む人々~』↓

ぜひお読みください!

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