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よく知っている歴史から比較 ~江戸幕府とムガル帝国~

「実用地歴提案会ヒストジオ」とうたって
記事を書いたりしている私ですので、
本記事では「実用」できる
地理や歴史を提案してみます。


「よく知っている歴史から
他の歴史にあてはめて比較する」方法です。
要は、自分の中で比較的なじみのある歴史を、
他の似たようなものにあてはめていく方法。

「いやでも、あてはめると言ったって、
ぴったり同じにはならんでしょ。
地理の条件も、出てくる人物も、
周りの環境もすべて違うのだから…」

まさに、その通り!

歴史も地理も一つとして
「完全に」同じものはありません。
どこかは違う。絶対に違う。
しかし、同じ人間が行った歴史ならば、
同じような、似たような部分もあるもの。

つまり、あてはめて、比較して、

◆相違点:違うところ
◆共通点:同じところ


これらを炙り出していく。
早速やってみましょう。
今回の題材は、

◆江戸幕府(1603~1867)
◆ムガル帝国(1526~1858)

この二つの政権(国)の歴史です。
まず、概要を確認。

『江戸幕府:
江戸時代における日本の武家政権。
1603年に徳川家康が征夷大将軍に補任し、
江戸を本拠として創立した』

『ムガル帝国(Mughal Empire):
南アジアの近世帝国。
北インドを周辺に広がっていた』

Wikipedia風に書けばこんな感じ。

江戸幕府は、日本の政権。関東中心。
ムガル帝国は、主に北インド中心の政権。
日本は島国、インドは半島型の亜大陸。
広さも違う、気候も違う。似ているのは
「17世紀に栄え19世紀半ばで滅亡した」
という年号くらい。

それぞれが成立した背景を見てみます。

◆江戸幕府:初代、徳川家康がつくる

1600年「関ケ原の戦い」で勝利した家康は、
関東の江戸を本拠地としていた。
当時の権力者の豊臣家は、大坂城が本拠。
これに対して家康は関東の江戸城で
征夷大将軍として「幕府」をひらく。

◆ムガル帝国:初代、バーブルがつくる

ティムール朝という王朝の王族であった
バーブルは、王朝末期の戦国状態から台頭。
1526年の「パーニーパットの戦い」で勝利して
デリーを中心に新王朝を樹立した。
ペルシア語でモンゴルを意味する
ムガールがなまってムガル帝国と呼ばれた。

…共通点を上げれば、どちらも
戦国時代状態の乱世から台頭して、
大きな戦いに勝利して自前の政権を
樹立した、というところ。
ただ家康は豊臣家という仮想敵を残しており、
バーブルもデリー周辺を固めたに過ぎない。

そこで、政権の権力が固まった
「第三代」を見てみましょう。

◆江戸幕府:三代、徳川家光が固める

家康の孫として生まれた家光は、
1635年の武家諸法度改訂で「参勤交代」、
1637年の島原・天草一揆の前後に
いわゆる「鎖国令」を定めた。
大名には「武断政治」で引き締め、
農民には「慶安の御触書」などを出して、
江戸幕府の政治の基礎を固めた。

◆ムガル帝国:三代、アクバルが固める

バーブルの孫として生まれたアクバルは、
周囲の敵国を次々に傘下に収めて、
北インドのほとんどを平定した。
多様な社会階層からの人材抜擢につとめ、
自ら信じるイスラーム以外の宗教にも寛容。
イスラーム教徒以外の者に課せられていた
「ジズヤ(人頭税)の廃止」も行った。

…どちらも政権を固めたのは同じですが、
その手法は違いがあります。

家光は「強権的」に
引き締める形で政治を行いました。
対してアクバルは「寛容的」。

この違いはどこから来るのか?

…家光の頃には豊臣家も滅んでおり、
「徳川一強」になってきた頃でした。
だから、遠慮なく弾圧や改易を行えた。
国内の「キリスト教」も禁止、全滅を図る。
勝手に国外に出ていくことも禁じた。
幕府の政治は、親藩や譜代の者が中心。

対してアクバルは、まだ敵が多い状況。
「戦国時代が続いていた」とも言える。
だから味方を増やすために
「寛容」的にならざるを得なかったではないか。
相手の価値観を認め、かつての敵も登用、
とにかく「親ムガル」を増やす…。

そう考えるとアクバルは三代目とはいえ、
江戸幕府で言えば初代の「徳川家康」に
近いのかもしれない。
家康は関ケ原の戦いに勝利するため、
諸国の諸大名を仲間に引き入れようとした。
後の幕府は鎖国をしますが、家康は
外国の商人とも、うまくつきあった…。

では今度は、滅亡のあたりを見てみます。

◆江戸幕府:開国を巡り混乱、大政奉還

1853年「ペリーの黒船来航」からの開国、
1860年「桜田門外の変」、
国内では尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、
1867年「最後の将軍」徳川慶喜は
「大政奉還」を行って朝廷に政権を返した。

◆ムガル帝国:長い混乱、イギリスの植民地へ

1707年に第六代皇帝アウラングゼーブが死去し、
領土内では反乱が続発、1720年代には
地方の太守(長官)が独立、帝国は分裂した。
1757年、イギリス東インド会社が
「プラッシーの戦い」でベンガル太守に勝利、
イギリスの勢力が拡大していく。
1803年、デリーの戦いでイギリスの保護国化。
1857年、インド大反乱が起き、鎮圧され、
1858年、第十七代皇帝バハードゥル・シャー二世は
イギリスの裁判で有罪とされ、ビルマに流刑された。

…そう、ムガル帝国は事実上、
第六代皇帝の後に「分裂」していたんです。
江戸幕府で言えば、1716年の八代将軍吉宗の
「享保の改革」の頃。

改革を行って政権を存続させた江戸幕府、
地方が独立して分裂していったムガル帝国。
インドは広く、陸続き、諸民族も多い。
島国をまとめるようにはいかなかった。

かつ、分裂後のインドには利権を狙う
イギリス勢力が入ってきていました。
彼らは分裂を煽り、利権を確保していく。
江戸幕府にも幕末の頃には
欧米列強の勢力が入ってきていましたが、
その侵入レベルは桁違いです。

これはひとえに、西欧からの
「距離」の違いによるものでしょう。


産業革命を成し遂げた「大英帝国」は、
エジプトからインドへと手を伸ばした。
1840年には中国で「アヘン戦争」まで行う。
…しかしさすがに、その先の「極東」である
日本までには全力を注げなかったのでは?
リスクに見合うリターンがあるほどの
富があるとも思われなかった。

地理的な恩恵、欧米同士の対立の間隙を縫って、
日本は明治新政府を樹立します。
インドがイギリスから正式に独立したのは
第二次世界大戦後の1947年です。

最後に、まとめましょう。

本記事では江戸幕府とムガル帝国を比較して、
相違点と共通点とを炙り出してみました。

なお、今回は触れませんでしたが、
江戸幕府の下では「浮世絵」
ムガル帝国の下では「タージ・マハル」など
世界に誇る文化も栄えました。
文化から比較するのも面白いと思います。

ぜひ、読者の皆様も気になった場所の
歴史と地理を比較してみては。
現代の「企業」などを比較するのもありですよ!

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