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9歳で20代の大人たちに英語を教える。
11歳でロンドンに初の留学。
22歳でケンブリッジ大学卒業。
同年、東京帝国大学の理学部教授…。

「マンガの中の人みたいですね。
…これ、さすがにフィクションでしょ?」

いや、実在の人物です。
彼の名は菊池大麓(きくち だいろく)
1855年生まれ、1917年に亡くなる。
誤植?と疑われそうな凄まじいキャリア…。

本記事では彼のキャリアを追いつつ、
江戸~明治の学者について書いてみます。
※記事の下部のリンクから
「西周」「津田真道」の記事もぜひ。

大麓の父親は「箕作秋坪」
(みつくり しゅうへい)です。

菊池と箕作、なぜ名字が違うかというと、
秋坪は箕作家に婿養子に入った人で
実家が「菊池家」だったから。
自分が箕作家に入ったため、
代わりに息子の一人、大麓を
菊池家の後継者にしたんです。

この箕作家(みつくりけ)、
江戸~明治、いや現代までつながる
凄い「学者一家」!
しかしその流れを説明するには、
美作国(今の岡山県)の
津山藩の話をしなければいけない。

まず、歴史の教科書に出てくる
「杉田玄白」「解体新書」
思い出していただければ。

玄白は江戸中期の人、1733年~1817年。
若狭の小浜藩出身の蘭学者。
1773年、オランダ語の医学書である
『ターヘル・アナトミア』を翻訳した
『解体新書』を江戸で刊行します。

これが物凄い反響!

というのも、当時、人体については
漢方医の「五臓六腑」の考えが主流でした。
西洋医学はこんなに緻密なのか!
蘭学すげえ!という衝撃があったんです。

…この蘭学の衝撃を受けた一人に、
宇田川玄随(うだがわ げんずい)がいる。
津山藩の江戸詰(江戸在住)の藩医。

元は漢方医で最初は
蘭方医の玄白に反発していました。
しかし交流するうちに西洋医学を志す。
1793年、解体新書の約20年後、
『西説内科撰要』という本を世に出します。
日本で最初の西洋内科の医学書。
…ただ、刊行途中の1797年に亡くなる。

後を継いだのが宇田川玄真(げんしん)
この人は伊勢の出身ですが、
元真の養子になる。1769年~1834年。
(本当は杉田玄白の養子でしたが
粗相があって離縁させられていました)
多くの医学書を翻訳、医学者を教育。
膵臓の「膵」やリンパ腺の「腺」の字を
編み出した人でもあります。
緒方洪庵や箕作阮甫など
著名な蘭学者を教育したことでも知られる。

この元真の養子が宇田川榕菴
ようあん。1798年~1846年。
「細胞」「酸素」「水素」「温度」など
植物や化学用語を漢字で表現したり、
コーヒーに「珈琲」と当て字をしたり、
この人もまた凄い蘭学者。
有名なシーボルトとも交流している。

…この三人、つまり宇田川一家の
玄随・玄真・榕菴を、
津山の「宇田川三代」と呼んだりします。
そう、津山藩では解体新書の衝撃から
「全国レベルの洋学一家」が生まれた。
洋学の町、津山!

さてここに、冒頭に出てきた大麓の
おじいちゃんも加わります。
その名も「箕作阮甫」
みつくりげんぽ。1799~1863年。
宇田川三代の榕菴と同じ頃の人。

津山で生まれて、江戸に出る。
宇田川玄真の下で洋学を学びます。
41歳で江戸幕府の通訳に任じられ、
ロシアとの交渉に活躍。
ペリーが届けた親書の翻訳もする。
58歳の時、幕府が作った
「蕃所調所」の首席教授になります。

今で言えば、東大の一番偉い人

「…ああ、大麓のおじいちゃんは
偉い人だったんですか。
大麓も七光りなんですね」

いえ、待ってください。
さすがに日本の七光りも、
ケンブリッジまでは届かない。
彼は努力と実力で学問を修めていく。
(家が学者一家ですから
環境は整っていたとは思いますが…)

箕作阮甫の婿養子が箕作秋坪。
大麓の父。1826年~1886年の人。
阮甫の手伝いとして蕃所調所に勤める。

「文久遣欧使節」で
ヨーロッパ視察に行きます。
1866年にはロシアとの交渉にも活躍。
まさに幕末の国際通!
ゆえに幕府が倒された際に、
「尊王攘夷のパワーでつくった
新政府に仕えることなどできん!」と、
政府の誘いを断ち、自ら洋学塾をつくる。

「三叉学舎」(さんさがくしゃ)です。

福沢諭吉の慶應義塾とともに
『洋学塾の双璧』とも呼ばれます。
西洋の学問を志す者は
どちらかの塾に入れ!とまで言われる。
東郷平八郎や原敬も
この三叉学舎で学んだ
そうです。

…話が広がってきたので、
ここまでをまとめましょう。

◆杉田玄白からの宇田川三代の活躍
◆宇田川玄真からの箕作阮甫の躍進
◆箕作秋坪、私塾の三叉学舎を作る

「解体新書」から蘭学・洋学の流れが
津山藩に受け継がれていった…。
この流れの中で現れたのが
秋坪の子、菊池大麓。1855年~1917年。
三叉学舎では大人に英語を教えた神童!

彼は二回もイギリスに留学する。
一回目は1867年(11歳)江戸幕府が派遣。
二回目は1870年(14歳)明治政府が派遣。
二回目の際に、ケンブリッジ大学に入学。

成績が良くて常に首位なので
イギリス人学生から嫉妬されるほど。
大麓が風邪で入院した時、
嫉妬した他の学生が示し合わせて欠席中の
講義のノートを貸さないことにした。
二位のブラウンという人を首位にするため。

復帰した大麓、改めてテストを受けますが
首位は変わらず。…休んでいたのに!

この話にはオチがあり、
二位のブラウンが毎日大麓を見舞い
ノートをそっと貸していたそうなんです。
「このブラウンの高潔な紳士の魂を
私は忘れない」
と後に回想しています。
在学中にラグビーもプレーする。
日本人初のラガーマンとも言えます。

1877年、帰国すると
22歳で東京帝国大学の教授に就任。
数学と物理学が専門。

その後の活躍も凄い!
国際子午線会議の日本代表
貴族院議員となり文部大臣も務める。
理化学研究所の初代所長になる。
あり得ないような大活躍の末、
1917年の「米騒動」の年に死去します。

最後にまとめましょう。

本記事では菊池大麓の話にからめて
脈々と続いてきた津山藩の
学者一家の話などを書いてみました。

なお、大麓の長女は美濃部達吉の妻。
次女は後の首相、鳩山一郎の弟の妻。
四男は著名な原子物理学者で、
湯川秀樹の先輩、支援者。

大麓の弟の箕作佳吉は動物学者。
もう一人の弟の箕作元八は西洋歴史学者。

昭和天皇は元八の歴史書を愛読しており
戦後に津山を訪れた際に
「箕作の家はどうなっているか?」と
岡山県知事に尋ねた
そうです。

学びは一人では成らず、一日にして成らず。
ネットワークと学び合いが大事!
杉田玄白~宇田川~箕作~大麓。
果ては湯川秀樹や昭和天皇…。

津山は中国山地の盆地に位置します。
高らかな山の麓はどこまでも広がる…。
そんな人と人とのつながりを思わせる、
菊池大麓と学者一族でした。

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『津田真道の「道」~失敗続きでも切り替える~』↓

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