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「いやいや、そんな人、マンガじゃあるまいし、
いるわけないじゃないですか!
『主人公補正』にもほどがあるのでは?」

…そう思いましたか?

ケンブリッジ大学と言えば、英国の名門大学!
そこに14歳で入れるわけがない。
その後24歳で首相というのもありえない。

…それがですね、いるんですよ。歴史上で。
フィクションでは、ない。

実は14歳でケンブリッジ大学入学、
という人は、最近にも一人いるそうです。
アラン・フェルナンデスという人。
2010年。
「237年ぶりのことだ」と騒がれたそうです。

ただ、14歳でケンブリッジに入学して、かつ、
24歳で首相、という人はなかなかいない。
そう、237年前には実在したんです。

その男の名は、William Pitt。
ウィリアム・ピット。
日本では「小ピット」の名で知られる。

本記事ではこの若き天才、若き首相、
小ピットの生涯を紹介します。

彼は英国で1759年に生まれ、
1806年に死去した人物です。
父親の名前は、William Pitt。

「…同じ名前じゃないですか」

そうなんです。
お父さん、自分と同じウィリアムの名前を
子どもにつけた。
それゆえ、お父さんのほうを「大ピット」、
子どものほうを「小ピット」と呼び分けます。


お父さんのほうも有名人。
実はこの人も英国の首相を務めている。
つまり、大ピットと小ピット、
親子二代で首相になっているんですね。

ピット家は、大ピットの祖父の頃から
隆盛した一族。

トマス・ピット、という人が大ピットの祖父。
彼は東インド会社に勤めており、
とんでもなく大きなダイヤ、
「摂政ダイヤモンド」と呼ばれる宝石を
インドで手に入れ、それを売って、
ひと財産を築きました。
人呼んで「ダイヤモンド・ピット」

このトマスの子どもが、ロバート。
ロバートの子どもが、ウィリアム、大ピット。
そのまた子どもが小ピット、という系譜。

当時の国王、ジョージ三世は
この大ピットを嫌っていた。
なぜか。大ピットは元は平民の出、成金の家。
「偉大なる平民」と呼ばれており、
国王や貴族を侮蔑してはばからなかった。
そんな大ピットに対し、ジョージ三世は、
「反逆のラッパ」というあだ名をつけた。

そんな大ピットの息子、次男として、
小ピットは1759年に生まれたのです。
日本史で言えば江戸時代、
田沼意次や平賀源内などの頃。

この小ピット、子どもの頃はとても病弱でした。
そのため牧師を家庭教師にして学んだ。
相当、才能があったんでしょう。
1773年、14歳でケンブリッジ大学に進む!

ただ、孤高の天才、とも言うべきか、
彼は政治家一家に生まれたにもかかわらず、
自分をよく知っている人物としか
付き合おうとしなかったと言われています。
でも、つきあってみると
人を惹きつける魅力があり、ユーモアもある。

なお、お父さんの大ピットは、
1766年に首相に就任した直後に
「チャタム伯爵」に叙されています。

「…『偉大なる平民』が国王に尻尾をふって
お貴族様になったんだってよ!」

失望した平民からの人気が急落…。
1768年には内閣が倒れる。
1778年、大ピット自身も
貴族院議場で演説中に倒れてしまい、
その一か月後に、死去しました。

その父親の遺志を受け継ぐべく、
小ピット、1779年に議員に立候補。
一回落選しますが、
1781年には下院議員に当選します。

…さて、この頃のヨーロッパと言えば、
歴史の変わり目、激動の渦です。

1776年、アメリカ独立宣言!
1789年、フランス革命!

イギリスとしては、これらに
どう対処していくのか考えなければならない。

時の国王、ジョージ三世は
大ピットの子ども、小ピットに目を付けた。

「『反逆のラッパ』の子どもは若いながらも
素晴らしい才能を持っている。
大ピットも首相に就任して貴族になった。
よし、ここは小ピットを登用して
国難を乗り越えさせよう!

こうして1783年、24歳の小ピットは
国王ジョージ三世の後ろ盾を得て、
首相に就任するのでした。

…とはいえ、ですね、いくら天才児で、
いくら国王の信任が厚いからといって、
弱冠24歳ですよ?
現代日本なら、四年制大学を卒業して
新卒二年目、というところ。

「まあ、誰か老練な政治家に
後を託すまでの『つなぎ』だろうな」

みんながそう思っていました。
最初は「クリスマスは越せない」という意味で
「ミンスパイ政権」と呼ばれていた。
クリスマスになったら食い尽くされて
影も形も無くなるだろう、と。
(ミンスパイとは、英国で
クリスマスに食べられる料理です)

しかしこの小ピット、予想に反して
翌年1784年の選挙で大勝!
何と1801年まで
約17年ほども第一次政権を維持するのです。

彼の業績と言えば、隣国での
フランス革命に対抗して、
「対仏大同盟」を組織したことが有名。

1801年には辞任した小ピットでしたが、
1804年には再び首相に返り咲く。
1804年と言えば
ナポレオンが皇帝の位に就いた年。
革命の申し子とも言えるナポレオンに対し、
「第三次対仏大同盟」を結成して対抗!

翌1805年には、トラファルガーの海戦
ネルソン提督が快勝します。
勝利を収めながら自らは
海戦で戦死したネルソン提督は、
『ヨーロッパの救世主』だと
あがめたてまつられました。

しかし、小ピットは次のように言う。

「あなた(ネルソン)がしてくださったことに
恩義を持って報いたい。
…しかしヨーロッパは
一人の人物によって救われたのではない。
イギリスが自ら努力して自分を救ったこと、
これからも、これを手本に
ヨーロッパを救うであろうことを私は信じる」

誰か「救世主」が現れて
自分は努力しなくても助かる…。
「英雄」が放っておいても
世直しをしてくれる…。

そのような考え、風潮を断固として否定、
自らが自らの努力と行動によって
道を切り拓いていく、その大事さを
小ピットは言いたかったのではないか?

翌1806年、彼は病死します。
海戦の同じ年、大陸で起こった
「アウステルリッツの戦い」で
ナポレオンが勝ったことに
ショックを受けて亡くなったとも言われる。
生涯独身で、子どもはいませんでした。

最後に、まとめます。

本記事では若き天才、若き首相として活躍、
英雄ナポレオンに果敢に抵抗した
英国の「小ピット」を紹介しました。


「ナポレオン」の名は有名ですが、
「小ピット」の名は日本では
必ずしも有名とは言えません。

しかし、ケンブリッジ大学では
「ピット氏に敬意を表する」がモットーの
「ピット・クラブ」が創設されている。
英国では、かなり有名な首相の一人…。

ぜひ、読者の皆様もこの機会に
彼の名を知っていただけましたら幸いです!

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