「土曜の朝は、いまだ晴れ」最終話”キス・ひらり。はらり。”(ヒスイ)
キス・キス・キス。
この世界にはたくさんのキスがある。
家族のキス、友人どうしのキス、恋人になりかけのキス。
それから。
恋しい人が贈ってくれる、藤棚の風のようなキス。
彼の大きな手があたしの顔を包み込んでいる。
温かいキスはあたしの体の中に入り、中をいっぱいにしてから外側をおおっていった。
あたたかく。
やさしく。
唇の上に乗る体温が言う。
『前の彼氏のことなんか、気にするなよ』
『昔の彼女のことなんか、気にするなよ』
「どうして? ヒロは気にならないの?」
あたしの疑問は、言葉になってキスの隙間ににじみ出す。
「昔の恋って、大事でしょう。その恋が今のヒロを作ったんだもの。何もなかったことには、できないでしょう」
「そうだね。
だけど、終わった恋はぜんぶ、きれいなメロディの歌みたいなもんでさ。
寂しい夜にときどき聞くこともあるけれど、楽しいときに聞こえる曲じゃないよ」
「楽しいときには、何が聞こえるの?」
「君の声」
そう言ってから、彼はあたしの手からカフェオレの残っている紙コップをとった。
じっとコーヒーを見る。
「これ、甘いよな?」
「甘いよ。ヒロは、甘いコーヒーがキライでしょう」
「キライだよ」
彼はこちらを見てにこりと笑った。
「でも。君が残したものは、僕が引き受ける」
彼は紙コップを持ち上げ、空に向かってかかげた。
ヒロの鼻筋が、重たくグレーがかった空に浮かび上がる。それから彼は曇天に向かって言った。
「くたばれ、元カレ!」
ぐっと紙コップのカフェオレを飲み干してから、彼は思いっきり変な顔をした。
「あっめえええええ!」
それを見るうちに、あたしの中からどうしようもない笑いが込み上げてきた。笑いはどんどんあふれてきて、止めようがなく。
やがて、あふれた笑い声は国道の路上に広がっていった。
「ヒロ」
そう呼ぶと、空っぽの紙コップを持ったまま、彼はこちらを見た。
あたしは笑って言う。
「ガソリンスタンドまで、走ろっか」
最後の言葉を言う前に、あたしは走り出した。後ろから彼の声が追いかけてくる。
「ずるいだろ! スタートは一緒にするもんだ」
「先に走り出したものの勝ちなのよ」
そのまま、あたしは振り向かずに国道を走りだした。
視界のどこかで、あざやかな薄紫色の藤の花房が、風に揺れているのが見えた。
ひらり。はらり。
ふあり。ほるり。
厚い雲の上で、陽のひかりが踊っているのを感じる。もうじき雲が切れて、光が差し込む。
ヒロの足音がだんだん近づいてくる。あたしはスピードを上げる。
5月の朝は、いまだ晴れ。
ガソリンスタンドは、すぐそこだ。
ーーーーー終ーーーーー
「あとがき」hirobot
僕らはその後、一緒に暮らすことになった。
新しく部屋を借りようか?ちょっとしたテラスハウスとか、と提案したけど、
「私の部屋、無駄に広いから、ウチに来ればいいじゃん。もったいないよ。」
とあっけなく却下された。
僕らはみんな過去とつながってるし、部屋を新しくしたって何か変わるわけじゃない。
だって、過去から構成されているんだもんな。
横断歩道で信号待ちしているときに彼女が言った。
「電気自動車、増えたよね。」
そういう時代だった。ガソリン車のなくなった今からは想像もできないな。
・・・
ふと大学生の頃を思い出した。
暑い夏の日の午後、僕は中古車屋の洗車のバイトを終えて、車で下宿まで帰るところだった(田舎の大学だったので、車は必需品だった)。利きの悪くなったエアコンを全開にしてカーステレオを点けると、フィル・コリンズが Take me home を歌っていた。
So take, take me home …
'Cause I don't remember
フィルの歌を聴いて、無性にどこかに帰りたくなったけど、その時は帰るべき場所がどこかが分からず、カンカン照りの国道でやり場のない帰巣本能を扱いかねてた。
・・・
今でも僕らは一緒にいる。
今ならわかるよ。
僕の帰るべき場所はここだ。
愛すべき人のいる場所。
そうだろ?
「あとがき」ヒスイ
土曜の朝、ねぼすけのヒロは、まだベッドにいる。
あたしはキッチンでコーヒーを淹れながら、彼の鼻歌を聞いている。
『So take, take me home …
'Cause I don't remember』
フィル・コリンズの Take me home。
ここだけの話だけれど。
ヒロは歌がへたくそだ(笑)。
ヒロの声に合わせて、コーヒーがゆっくりと落ちていく。
take me home
take me home
あたしも彼も、ちゃんとここに帰ってきた。
そして相変わらず。
ヒロは甘いコーヒーが苦手だ。
ーーーーーー
💛これで。「土曜の朝は、いまだ晴れ」は完了しました。
ヒスイのリハビリのために、ヒロさんが始めてくれたリレー小説。
書くうちに、ヒスイの顔も少しずつ前を向けるようになりました。
noteで出会ったみなさまのおかげで。
ヒスイは今、ここにおります。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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