近代現代音楽の地域的違い 凝縮、民族的混淆、民謡回帰 ~近藤浩平口述シリーズ第4回~

 第4回では、音楽史に関する幅広い見識をもとに、20世紀の近代音楽・現代音楽の地域別特徴を述べていただいた。現代音楽の特徴というと、無調や不協和音という音遣いの特徴の話が多いが、近藤氏はクラシックの知識ももとにすることで、ヨーロッパ大陸、アメリカ、イギリスの近代現代音楽の地域的特徴に言及されている。

ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏会での写真

 ヨーロッパ大陸、アメリカ、イギリスで20世紀音楽には違った特徴が見られる。ヨーロッパのメインストリームは、19世紀までのクラシックの濃い癖のあるところを集めて凝縮した、クラシックも知らないと聴きにくい音楽。アメリカは世界各地の民族音楽が寛容に雑種的に混ざったもの。イギリスはバッハのような強い和声構造が作られる前からあるイギリス民謡や古楽を再発見し回帰したうえで、20世紀の作曲技法を用いるものだ。

成熟したクラシックの凝縮としてのヨーロッパ

 ヨーロッパの流れの20世紀音楽、つまり新ウィーン楽派や三善晃とかは、ローカルなものが流れ込みながら、でも、クラシック音楽という表現の中で、個人の芸術家が形式美について手腕を見せて、成果として示すもの。
 歴史的には、一度いろいろなモード(旋法)があった中で、素材を16世紀くらいから長調短調に絞り、和音も3和音に絞った。20世紀はその絞りを緩めた時代。緩めた結果、馴れ鮨のような通好みの音楽の成熟が20世紀に極致にくる。洋食でいうと、ブルーチーズとか発酵系の癖のある大人の味、成熟した最後の大人の味で、それが、ヘンツェ、ベルクとか、20世紀ヨーロッパメインストリームの現代音楽の味。
 たとえばシューベルトなどには、当時のリースやグロンマーとかはやらないような、違和感ある転調がある。そういうものを取り入れて、腐る寸前の肉はおいしいみたいな、にがい酒とかみたいな、そういう味がヘンツェとかにある。ポストマーラー的な音楽の、馴れの果てだ。
 基本的に、ヘンツェとかは、マーラーも、ブラームスも知らない人が楽しんで聴けるものではない。モーツァルト、シューベルト、ブラームス、メンデルスゾーン、マーラー、ワーグナーも知っていて、ベルクを聴くと、あのワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のうねうねとした、長い楽劇の中で所々出てくるひっかかりのあるところとか、ウェーバーのオペラの不気味なところの、なんとなくぞわぞわっとするところの、今聴いても刺激的なところが取り入れられているのがわかる。ウェーバーなどは通して聴くと当時のまっとうな音楽だが、その濃い所のみ集めたのがベルクともいえる。そこが正統派ヨーロッパ現代音楽の魅力だろう。

民族音楽混淆のアメリカ

 アメリカの現代音楽はちょっと違う。ヘンリー・カウエル、ルー・ハリソンとか。多様性に対する受け入れ力が強い。雑種としての平安をもとめる音楽。開拓地で、人種がごっちゃの中で、うちの祖先はあそこからきている、ネイティブ・アメリカンからきている、中国からきている、といろいろな祖先からきた民族音楽が寛容に混ざった、鷹揚さの中で生まれているのがアメリカの音楽。カウエルとかは、アイルランド系だから、アイルランドの音楽が入っていて、知人にインドネシア人がいれば、インドネシアの音楽も入っている。そのごっちゃの音楽。

民謡回帰のイギリス

 イギリスの近代現代音楽は、ある種もとの自分の昔の時代に戻っている感じ。クラシック音楽史の中で、ベートーヴェン、ワーグナーという、すべての音楽が長短調の機能和声に収斂する強力な支配的な中心地が、もし発生しなかったらクラシック音楽はどうなっていたか。その、もしもの音楽史を示す、バッハなど以前の昔に戻った側面があるのが、ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ブリテンとかイギリスの近代音楽だ。
 イギリスは、ルネッサンス期が、バードなど音楽の最盛期。パーセルなどバロックになると、イタリアの音楽の影響も入ってくる。古楽には、長調短調だけでない旋法的なメロディーの世界があり、和声も3和音が並んでいながら、緊張して解決して終わりという機能感が緩い。それが長調短調に整理され、できるだけ求心力が高い和声構造にドイツの音楽はなっていき、バッハにおいて和声構造の強い音楽になる。
 イギリスは18、19世紀に大作曲家がいない。
 ベートーヴェンなどが主流になってから、みんなそれを目指すようになり、イギリスの作曲家も、メンデルスゾーンの弟子みたいな感じの、ドイツの様式を学んだ中小作曲家が多い。1980~90年代に音楽コンクールに入賞した、審査員の門下みたいな感じで、当時は中心のお手本があった。中心があると、先生のお手本に倣った音楽になり、独自の存在意義と影響力を強くもった大作曲家がでなくなった。
 しかし、イギリスは19世紀の終わりに、フォークソング・リバイバルというムーブメントが起こり、イギリス民謡の再発見をする。平行して自国の古楽も再発見する。
 民謡は、長調短調や4拍子、3拍子には、はまっていない。ドイツの音楽では旋律は事実上分散和音だ。だが民謡はそうではなく、機能和声の和声進行を前提にしていない。18世紀の長調短調、緊張解決、カデンツという形式に倣った優等生の音楽ではない。そういう音楽が、民謡リバイバルで再発見された。そこで、イギリスでは、モード(旋法)の世界に戻り、自由にハーモニーをつければいいとなり、そうすると、半音階や12音技法になる必然性がない。イギリスは、ワーグナーまでのドイツ音楽の影響から、距離を置くようにした。自分らの民謡を再発見して、でも20世紀の最新の作曲技法で自由に書くことにした。ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ティペット、ブリテンは、地は民謡や古楽、でも作曲法はストラヴィンスキー以降のもので自由に、ドイツの機能和声に従わなくていい、としている。わたし自身も、長調短調だけではない旋法というものも使いながらさらに自由に拡張しているので、彼らに近いかもしれない。

 わたしの大学の専門はイギリス近代音楽だった。ホルストとヴォーン・ウィリアムズを勉強。自然な自分の旋律、自分の音を用いるが、縦の重ね方は20世紀以降の技法を存分に使う。その意味で、パーシー・グレインジャーが近い。グレインジャーもホルストと近い位置にいる。グレインジャーの背景はブゾーニ。グレインジャーはブゾーニの弟子。ブゾーニは言っていることは新しいが、当時のドイツやイタリア音楽の中で育っているので作曲では思想を実践できなかった。理屈では自由になれば良いと思っているが、自身のネタがなく自由な新しい音楽を自分では作りきれなかった。
 わたし自身は、現代のポピュラー、ジャズ、クラシックのあるごった煮の日本社会の中にいて、その意味ではアメリカのごった煮と近い。20世紀のホルスト、アイヴズの音楽には、自分の考え方に近い価値観が感じられ親近感を覚える。

ベルリンのフィルハーモニー カンマームジークザール1 (2)

◇近藤浩平ホームページ
http://koheikondo.com/

◇本インタヴュー企画の主旨は、現代芸術活動のアイデア、現代芸術の魅力をどう表現できるか、また社会にあるとよいシステム等について、関係者から話を集めること。それを記事にして共有することにより、現代芸術活動のやり方の体系をつかみ、うまく社会の中で演奏家なり作曲家なり表現者が動くための素地をつくることにあります。引き続き各演奏家、作曲家等の方々にインタヴューをしていきます。


                       2020/8/22 茅ヶ崎にて
               (聴き手:北條立記 作曲家・ライター)

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