まだ見ぬタピオカを妄想する試み
はじめに
あれは高2の秋、野球部の練習試合を終えたときだっただろうか。なにやら聞き馴染みのない言葉が、それにまったく似つかわしくない泥まみれの友人の口から発せられた。
「帰りにタピオカ飲みに行こうぜ」
タピオカ??
私は荷物をカバンにしまいながら、頭に疑問符を浮かべた。
どうやら、巷で流行っているらしい。北海道の片田舎が、巷に包摂されるのかはわからないが。友曰く、ミルクティーにおたまじゃくしの卵みたいな玉がたくさん入ってる。友曰く、その玉を食べたり食べなかったりする。友曰く、流行っている。
当然、私はその誘いを断った。「だよな」と友は頷き、グラウンドを後にした。無事タピオカとやらにありついたらしい。
月日は流れた。ついに私はタピオカミルクティーなるものを味わっていない。ついでに上京してからマクドナルドには一度も行っていない。TMI。
タピオカとは何か
本稿は、まだ知らぬタピオカを妄想する試みである。ミルクティーに入っていると囁かれる、タピオカとはいったい何者なのか。
どんな見た目で、どんな色で、食感で、味なのだろうか。タピオカという得体の知れない名は、どこからやってきたのか。
語源から探るタピオカ
まずは、語源から考えてみよう。意味を推測するときの基本のきである。大学受験の英語を思い出せ。なけなしの知識を活かそうと頭を捻ったあの日々を。
そもそも、「タピオカ」は何語が由来なのだろう。日本語、英語、ロシア語以外だと絶望的である。できないことを数えてもしかたない。あらゆる可能性を考慮してみよう。
「タピオカ」英語起源説
3つの中では最も可能性が高いのは英語だろう。しかし、それにしても私の知っている英語の体をなしていない。まずは分割できるか考えてみよう。「わかる」とは、「分ける」ことにより補助線を引く営みの繰り返しである。
ピンと来た。
「タ」は「The」の訛りの可能性がある。「th」は発音に困ることで悪名高い。実際、サ行にもタ行にも割り当てられることがある。アテネ(英語ではAthens)がいい例である。
「The ピオカ」という全体像が見えてきた。「ピオカ」とはなんだろう。
「カ」で終わる単語かそもそもあまり思いつかない。外来語由来の可能性が脳をかすめる。
だがしかし、ここで諦めるわけにはいかない。ここで安易に情報に飛びつく人間など、AI全盛の時代に存在価値はない。人間は考える葦なのである。
考えられるとすれば、カタカナ化する際に音が変化することだ。特に伸ばし棒は変化に対して無力である。「ジェファソン vs ジェファーソン」「リンカン vs リンカーン」あたりを見ればわかるだろう。
どちらも英語に近いのは前者である。しかし、日本語として耳馴染みがよいのは後者だったのだろう。たまたま逆のものが思いつかなかったが、逆もまた然りのはずである。
つまり、「タピーオカ」「タピオーカ」「タピオカー」が正しいという事実も当然考えられる。
ここまでの考察を総動員すると、「The ピオker」が最も妥当だろうか。「YouTuber(ユーチューバー)」「Teacher(ティーチャー)」の「er」、すなわち「〇〇する人」いうと意味である。
道半ばまでやってきた。
問題は「ピオ」である。いや、「ピオク」か。どうにも英語のような響きは感じられない。とはいえ、これまでの緻密な推論に誤りがあるとは考えにくい。
煮詰まったら、思考を転換してみよう。「ピオク」という言葉に囚われすぎてはいけない。前述のように、日本に入ってくる過程で音が変わることは往々にしてあるからだ。「アメリカ」を「メリケン」と呼ぶほどのリスニング力を侮ってはいけない。
「ピオク」「ピョーク」「ポーク」「ポーカ」
ん?
一歩立ち止まろう。前の推論の「カー」は、必ずしも「〇〇する人」の「ker」ではなかった可能性がある。
私は膝を打った。聞き馴染みのある言葉が脳裏をよぎる。
ポーカー。ポーカーだ。そう、ポーカーに違いない。
メリケンリスニングを十分に発揮し、「The poker」を「タ・ピオカー」に聞き違えたに違いない。パズルがはまった感覚とはこのことである。
何度でも言おう。「ザ・ポーカー」「The Poker」「タ・ピオカー」。そうとして考えられない。
長かった英語起源説の旅もここで一区切りである。日本語とロシア語も必要になることを懸念していたが、杞憂であった。もう一度言おう。「タ・ピオカー」と。
語源から想像するタピオカ
「タピオカ」はポーカーに由来していることが明らかになった。では、なぜポーカーだったのだろう。私たちは、ここでも想像力を発揮せねばならない。人間の尊厳を守るために、ここで負けるわけにはいかないのだ。
しかし、ここで問題が発生する。ポーカーにはさまざまな特徴があるが、由来となったのはその一面に過ぎないことだ。言葉にするとは、その対象が持つ一つの側面を切り出すということを意味する。起源が音である限りにおいて、多層的な意味を見出したとは考えにくい。
ポーカーは心理戦である
ポーカーについて、少し思考を巡らせてみよう。ポーカーは、トランプを使った心理戦である。強い組み合わせや弱い組み合わせがある。私は今、小さい頃に兄から教わったルールを必死に反芻している。
心理戦という観点に着目した場合、タピオカのどこかに心理戦のような性質があったということは想像に難くない。
私の持っている「玉が入ったミルクティー」という情報に心理戦を重ね合わせるならば、玉を見つける/口に入れるためには一定程度の精神的負担を伴うという推論が可能だ。そういえば件の友人は、玉を掬って食べたと、一体全体何が面白いのかわからない報告を誇らしげにしてきたことがある。
私は当時の自分の想像力を憎んだ。
彼が誇らしげにしていたのは、単に流行に追いついたからではない。タピオカの玉を口にしたというその行為は、彼が努力によって精神的困難を乗り越えたという証左になり得たのである。心理戦に打ち勝ち、無事玉を手にすることができたのだと、俺はやったぞと、彼は私にそう伝えたかったのだ。すまない、私が未熟であった。
ポーカーはギャンブルである
ただ、前述のように他の選択肢も考える必要がある。ポーカーから連想されることとして、カジノやギャンブルが挙げられよう。アダルトな感じのワインレッドに黒の色調がよく似合うカードである。
「心理戦」説と異なり、これに関しては簡単な由来である。
そう、ポーカーに喩えることで、「タピオカを買う=徒に金をドブに捨てる」ということを皮肉っているのである。これは至極理解しやすい。多くの味付き飲用水に当てはまる命題である。すなわち、「付加価値をこれでもかというほどに付与し、原価からは想像もできないような値段で売る」という構造である。私は特定の誰かや商品を指してるわけでは決してない。
タピオカを組み立てる
語源だけでなく、他の観点からも考えてみよう。多面的・多角的な思考こそが、リベラル・アーツの真髄である。
私が断片的に得ている「タピオカ」の情報をまとめると、以下のようになる。
飲み物である
「タピオカミルクティー」とも呼ばれる
あやしげな玉が容器に入っている
当時流行っていた
情報は多くない。私はこれらの要素から、タピオカをタピオカたらしめなければならない。まるで名探偵コナンの謎解きのようである。やめてください、怒らないでください、ファンの人。
やはり鍵となるのは、「当時流行っていた」という点だろう。他の3つは外見的特徴に過ぎないからである。
ということで、マイナビニュースを参考に、2019年当時の流行を振り返ってみたい。
まず、流行語大賞は「ONE TEAM」に選ばれたようだ。ラグビー日本代表の大躍進があったのは2019年。他にも、「〇〇ペイ」が市民権を得つつある時代であり、「ぴえん」が流行り出したのもこの頃だとか。そういえば令和元年であった。完全に忘れていた。ぴえん。
お気づきだろうか。これらすべてに共通する要素が、ひとつだけ存在することに私は気がついた。
そう、「ラグビー」「〇〇ペイ」「ぴえん」そして「タピオカ」、これらすべてに、「丸あるいは玉(球)」の存在があるのだ。「ぺ」「ぴ「「ピ」とラグビーボール。なかなか美しい対応ではないか。
つまり、この年にタピオカが流行することはもはや歴史的必然だったのである。
2019年の人々は、ラグビーを見ながらPayPayでタピオカを購入し、感動でぴえんするのである。
結論
ここまで、語源から、そして所与の条件からの推定によって、タピオカとは何かを構想した。
別々であったものを組み合わせてみよう。合わせ技こそがリベラルアーツの真髄である。
まず、「タピオカ」という名称は「The poker」を明治頃の日本人が聞き間違えたことに端を発する。なぜこの存在が「The poker」と呼ばれるようになったのかは、ポーカーの性質に大きく関わっている。私はここで2つの仮説を提示した。ひとつは心理戦という側面、もうひとつはギャンブルという側面だ。
これらをさらに昇華させると、ひとつの抽象的概念が浮かび上がってくる。それすなわち、「成長」だ。
心理戦を超えた友人がなぜあそこまで誇らしげにしていたのか。それは、彼は精神的に成長したことにとどまらない。ギャンブルという大人の遊びに由来するものを摂取したことにより、彼は社会的に大人として認められるに至ったのだ。
ここに、2019年を重ねてみよう。平成から令和への分岐点である。激動といわれる現代において、ひとつのピリオドが打たれたのだ。歴史の転換点といえば聞こえはいいが、渦中を生きる人間は誰も必死である。さらに、低成長の時代である。我々の世代は「失われた30年」を生き、「成長」という社会の変動を味わっていない。私たちは世代として「低成長」というラベルを背負わされているのだ。
そうした集合的記憶にふと、「成長」である。それは飛びつくに違いない。それは鼻で笑った私はいかに愚かであったか。いかに浅はかだったか、痛恨の極みである。誠に遺憾である。この出来事を真摯に受け止め、検討せねばならない。
私もその波に乗ってみよう。まだ見ぬ「経済成長」という夢を目指して。
オッケーバブリー。おったまげ〜!
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