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あいさつに関する一考察 — 「こんにちは」の敗北/「おつかれ」の栄華

想像してみてほしい。

「こんにちは」
あなたは誰かにそう声かけられた。

その相手に浮かんだのは、どんな人だろう。

友人だろうか。家族や恋人だろうか。
それとも他人だろうか。
立場は上だろうか、それとも下か。


宙に浮いた「こんにちは」

「あー、コンニチワーー!!」
生活空間でふと耳にした感動詞に、私は猛烈な違和感を覚えた。
アジア系の学生が、仲の良い友達との待ち合わせであいさつをしたのである。
(私の住む寮はキャンパス内にあり、日本語を学んでいる学生も多く住んでいる。)

この違和感はおそらく、「彼女らは『こんにちは』というほどの距離感ではない」という私の思い込みによるものだろう。

なぜか。
ここから、約10か月の生産性のないだらだらとした考えが始まった。
10か月前というのはこの感覚をメモしたことにすぎず、特に思索を巡らせたわけではない。なので別に深くもない。なんとなくの答えは5分後くらいに出た。
適当にググった限りだと研究もあまり見当たらなかったので、さっさと言語化してしまおうというわけだ。

関連する話題については簡単な論文が2つ出てきたので、参考までに。
倉持益子「『お疲れさま』 系あいさつの意味の希薄化と拡大」(2008年
倉持益子「あいさつ言葉の変化」(2013年)

あいさつの類型

日本語のあいさつで使う言葉は、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」が基本の3つだろう。他には「ありがとう」もよく使う。
最近では、「おつかれ」があいさつ界の市民権を得つつあるように映る。
本稿では「じゃ」「おっす」「どうも」などは扱わない。なんか別な気がした。

この中で、親しい間柄で使う言葉はどれだろう。
「おはよう」や「おつかれ」は使うが「こんにちは」「こんばんは」は使わないという人が多いのではないだろうか。

ちなみに私はモーニングおつかれに未だ抵抗のある古くさい人間なので、「おっす」でごまかす傾向にある。
タイミングを逃したのでここで付け加えると、漢字(お疲れ様です)よりも見た目がかわいいひらがな表記(おつかれさまです)のほうを私は原則として用いている。

理由を考える

では、なぜ親しい間柄で「こんにちは」よりも「おつかれ」が用いられるのだろうか。

丁寧さの省略

大きな要因として、省略が関わっていることが考えられる。

以下に挙げるものは、友人関係でもよく使われるだろう。

  • 「おつかれ」←「おつかれさまです/おつかれさまでした」

  • 「おはよう」←「おはようございます」

  • 「ありがとう」←「ありがとうございます」

  • 「おやすみ」←「おやすみなさい」

一方で、「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」などには長尺バージョンが存在しない。
「そもそも『こんにちは』は『今日はお日柄もよく』的なものの省略だろ!」という真っ当なご指摘は、一旦ガン無視する。

このように、もともと長く丁寧な言葉であった場合、言葉を縮めることによって、その言葉が持つ恭しさを低減させているということが考えられる。

2024/2/17追記:
川原繁人『音声学者、娘とことばの不思議に飛び込む』(朝日出版社、2022年)を読んだ。ここでも「短くすることで心理的な距離が縮まる」という仮説が提示されていた(156-157項)。例えば、名前を短くして愛称にすることや、怒るときにはフルネームで読んだり「さん」付けしたりすることが挙げられている。
なお、川原先生もこれについては「仮説」と書いているため、まだしっかりと検証されたものではないようだ。
ちなみにこの本はトイレに行くことも躊躇うほどに面白い。

同情の表現

労いと仲間意識

ここからは「おつかれ」にいっそうの焦点を当てて考えてみよう。
「おつかれ」はなぜここまで支持されているのだろうか。前述の倉持(2008)を一部参考にする。

最も大きな要因は、相手への労いを込めることができるという点だと私は推測する。元来、「おつかれさま」には相手の働きへの理解やそれに対する感謝が含まれる。「私はあなたのがんばっている姿を見ているよ」というメッセージを一言に表すことができるのである。
もっと言えば、こうした同情の共有により、仲間意識の形成にも一役買うことになるだろう。

エンパシー

エンパシーという観点からも考えてみたい。「共感」「エンパシー」「シンパシー」などの言葉は、聞くことが増えた気がする。有名作としては、ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』『他者の靴を履く:アナーキック・エンパシーのすすめ』、永井陽右『共感という病』(これはまだ読んでない)などが挙げられよう。

感情史研究の近著『共感の共同体』をもとに、少々データを見ていこう。
以下の3つのグラフは、日本のみならず英独仏伊での「共感」の出現頻度、それに日中における「共感」に関する研究件数の著しい増加を示している。

伊東剛史・森田直子編『共感の共同体』(平凡社、2023年)、10項.
同書、11項.
同書、11項.

このブームに乗って考えてしまうと、「おつかれ」はまさに共感を示すあいさつ表現として捉えることができる。
それに比べて「こんにちは」は、何一つ意味を持たない。今日はどうなのかすら言っていない。あいさつの慣用表現として地位を失えば、すぐさま蔑みの目を全方向から向けられるだろう。コスパゼロである。

こと「おつかれ」については、同情や共感をほのめかす働きが存在しうることが伸長の要因になっているのではないだろうか。

おつかれの裏には

冒頭で文献に挙げた倉持は、孤独への恐れと、忙しいのが当然という社会通念が、「お疲れ」の拡張の裏にあるのではないかと述べている。
少々言い過ぎな気もしなくもないが、そう言えなくもないだろう。
ここは特に突っ込むつもりはない。
なぜなのでしょうか。

おわりに:あいさつはどこへ向かうのか

このままの勢いだと日本語の教科書には、5年後にはコラムくらいで、20年後には本文に、「あいさつ表現としてのおつかれさま」的なことが載るんじゃないかと妄想している。
あまり想像に難くない気もする。

それはよいとして、だ。
「こんにちは」はどこへ行ってしまうのか。
すでに述べたように、「おつかれ」には長短どちらの表現もある。丁寧さも親密さもどちらも演出できるという優れものである。
「こんにちは」はフルボッコだ。

この不憫な「こんにちは」の力になりたい。私はそう思った。

「こんにちは」に兄弟姉妹をつくる必要がある。喫緊である。絶滅の危機にあるものを保護しようとするのはよくある流れだ。
私が彼らの母となろう。
「こんにちは」の丁寧ver. ができれば、その省略ver. である「こんにちは」にも、少しのラフさが生まれるに違いない。

となると、「今日は」に続く言葉を考えなければならないのはもはや自明である。

天気はその状況に左右される。暦も御し難い。
やはり「相手が忙しい」という相手を立てた前提のもとに成り立つ「おつかれ」の壁は高い。
容姿や服装を褒めるのも、叩かれる可能性がある。なかなか難しいものだ。

みなさんであれば、次にどのような言葉を続けるだろうか。心理テストに出てきそうだ。
忌憚なきご意見をいただけるとこれ幸いである。

ここまでおつかれさまでした。
読んでくれてありがとう。

※このnoteに学問的裏付けは一切ありません。ど素人の妄想だということ、ご了承ください。

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