あなたの「関心がないこと」はなんですか?
「あなたが興味を持っていることは何ですか?」
「あなたの強みは何ですか?」
「あなたは、何がしたいですか?」
入試で、インターンで、就活で、あるいはその対策セミナーで、繰り返し聞かれる。
かくいう私はいずれの面接も受けてないから想像だけど。
たぶん聞かれてんじゃないだろうか。聞かれていなかったらこの文章が成り立たないので、何としても聞かれていてほしい。
人生100年の時代で、個性を叫ぶ
独自性を問われて
就活真っ盛りの先輩や、早くも準備を始めている同級生を見て、よくやるなと思う。個人的に、大学で就活に身を捧げるのは、哀しい気持ちになるのでやりたくはない。
まあ、大学の役割も歴史の中で変容していくだろうし、人材開発的な側面を帯びていくのもまた、新しいそれなのかもしれない。
違う、こんな斜に構えた「おれはお前らとは違うんだぜ」的な雰囲気を出してる自称自己探究型大学生みたいなことを言いたいんじゃない。
ちなみに、そんなことを自称している人は見たことがない。あくまでイメージです。
人生100年の時代に
最近、人生100年っていう時代なのに、決断や育成はどうして前倒しにされていくのだろうと、素朴に思った。
MBTIのような、性格から相性までも診断してくれる類のもの。あふれる〇〇コンサルタント。「自分に合う仕事を見つけよう!」みたいな充実したキャリア支援。(誤解を恐れずに言うと)個別最適化された教育。
なんだか、個性なるものがすごく尊重されている。いい社会じゃないか。それぞれが、自分に合った、最適な人生を生きられる時代が来るかもしれない。
なぜだろう、私はどうも、違和感を感じる。
もちろん、それとは一線を画した動きがあるのは承知している。特に教育現場では。それだけは申し上げておく。
個性を探す
個性個性と騒がれるいま、私たちは自分の強みを見つけることに追われている。
ん? なんかおかしくないか?
個性ってのは、そんなに見つけようと必死になるものなのか。そもそも、個性ってなんだ。人と違う何かがなければいけないのだろうか。夢中になれるものがなければならないのだろうか。
あ、実はこんなことを書いている自分は、自分には個性があると思っているし、夢中になれるものもある。なんという他人事だろう。
分析する時は自分のことは棚に上げろと誰かが言ってた。そう、たしか誰かが。
仮に、「自分にはこれだ!」というものが見つかったとしよう。その確信は、どこまで頼れるものなのだろう。
恐縮ながら自分語り
ここからは、赤裸々に経験則を述べさせていただく。
ドイツ帝国の名宰相ビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったとされる。なるほど。
いたいけな瞳をしていた頃
大学入学前、私は「教育学をやりたい」と思っていた。母が教育や子育てに携わっていたこともあり、漠然と教育が大切だとは感じていた。
ただ困ったことに、私の好奇心は、ご飯を前にした愛犬の食欲ほど旺盛に育ってしまった。
政治学もやりたいし、法学も面白そうな気もするし、歴史は好きだからやってみたい。言語にも興味がある。
理由はそれだけじゃないが、2年間好きに学んだ後に専攻を決められるICUに入学した。
選択肢に触れて
本格的に学問に触れて、後悔した。
なんて面白いんだと。どうして、もっといろんな本を読み、いろんな話を聞き、いろんなことを語り合ってこなかったのかと。
最初の学期に受けた言語教育の授業は刺激的だし、1年の夏頃から聴き始めたコテンラジオは移動中ずっと聞いてしまう。教育学は衰退気味だけど、なんだかんだ哲学はやりたいし、授業で死ぬほど本を読まされた政治学も捨てがたい。非常勤の先生が講義してくれた国際関係の授業に影響されて、外務省に入ろうか本気で迷ったこともあった。去年から聴き始めたゆる言語学ラジオの影響で、言語や認知、人類学への興味も掻き立てられる。
メジャーは、歴史学。
ここから、地域、言語、時代、研究方法、など、さらなる模索が始まる。
詳述は控えるが、現時点では運命を感じたロシアが本命。とはいえ、好きな先生がやってるイギリス史も面白そうだし、アラビア語をアルファベットくらい練習してみたこともあり、中東やイスラームへの憧れも捨てられない。一周回って日本史もアリでは?と言い出す始末。
政治家だったら「有権者への裏切りだ」と叩かれまくってるだろう。大変な仕事だと思う。
こちらも書いたらキリがないので割愛するが、キャリア選択の迷いはその比ではない。
少々、語りすぎた。そして、あまりにも好きに書きすぎた気がする。しかもすべてにおいて中途半端である。取捨選択は難しい。自分の優柔不断が憎い。
カバンを買いに下北沢に行って、迷いに迷った挙句、何も買わずに帰ってきたことを思い出す。
選択ってムズカシイ
現実とキャリアプラン
そろそろ、本筋に戻ろう。
私が言いたかったことは、自分が影響されやすいミーハー人間だということ、ではない。まだタピオカミルクティーを飲んだことはないのです。
要点は、これまで知らなかった世界に触れることで、それだけ自分の視野も広がり、可能性も広がったということだ。
そんなこんなで、何にでも興味が向かう人間なので、ずっと1つの学問分野、1つの進路目標に向き合っている友人たちはすごいと思う。
まあ、よそはよそ、うちはうち。もう少しだけ身勝手な論理を展開させていただこう。
早い段階で可能性を絞ってしまうことが、あまりにもったいない気がするのは私だけだろうか。少なくとも私は、高校卒業時に専門を絞らなくて、本当に良かったと思っている。ましてや、キャリアプランなど考えられなかった自分を讃えてあげたい。
とはいえ、「現実」はそんなに甘くないだろう。医師を志すなら医学部に行かないといけないし、私に教師という選択肢が残っていたのは、大学にたまたま教職課程があったからだ。試験に向けて勉強しなければいけない人もいれば、早期のインターンから始めないと不利に働く人もいるだろう。
私がここまで楽観的でいられるのは特権なのかもしれない。あるいは、救いようのないほど無知な可能性もある。大いにある。
強化される興味分野
まあ、それは置いといて、早めに早めに選択を迫られる世界は、少しばかり窮屈じゃないだろうか。
面接で個性をアピールするために、自分の興味分野を探し、強みを活かそうと頭を抱える。自分のやりたいことを見つけるために啓発本を読み、セミナーに通う。
自己分析、自己分析。その自分は、誰のためにある自分なのだろうか。
たぶん、人々は独自性を求められる過程の中で「自分」を確信し、「興味分野」は強化されていくんだろう。
良い就職先を選ぶために、良い大学に行く。充実した進学支援を行う高校に行くためには、優秀な中学校に行かないといけない。
単純化しすぎとの声が、隣のカラオケボックスで気持ちよさそうに歌っておられるご年配の方々の演歌のように耳に入ってくる。
でも、徐々にではあれ確実に、選択する機会は下に降りてきていると思う。
「選択の自由」の名の下で、「選択しない自由」は認められていない気がした。
おわりに
無知という誇り
私は自分の身の振り方を確定するのを渋ってよかったと思う。
おかげさまで、もう3年生っていうのにブレッブレである。それでも、気づいた頃には進路変更のできないレーンに乗ってしまっているよりはマシだと思っている。
いま「関心のないこと」に目をむけることは、ほぼ不可能と言っていい。だって視界に入ってこないのだから。
おそらく大事なのは、自覚的になることだ。
すごく安っぽくいえば、無知の知である。
新たに知るたびに「おもしろっ」と思い、自分が知らなかったことを悔いる。でも、未知のことに興味を持てるのは、自分が「まだ知らないこと」に意識を向けているからだと思う。
生存者バイアスだろうか。そうだ
まったく知らなかった分野はもちろん、既知の分野も同様だ。勉強すればするほど、知れば知るほど、新たにわからないことが出てくる。
むしろ、学ぶほどにわからなくなっていくと言っていいかもしれない。
知識の風船は、空気を含めば大きくなっていく。
大きくなった分だけ、外に触れる表面積は増える。知れば知るほど、知らない部分に触れる面積が大きくなるわけだ。
知の獲得は、不知の自覚と表裏一体なんだろう。
そんなに急いでどこへ行く
不知に、曖昧さに、決められなさに、もうちょっとだけ寛容だったらいいのになあと思う昨今である。
そりゃ、短期的に見たらさっさと決めて専門性を深めたほうが役に立つだろう。
そろそろお気づきだと思うが、私はこういう考えはあまり好きじゃない。
「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」
生きる時間も長くなっているし、技術も日進月歩で発展している。それにもかかわらず、どうして私たちはこんなに精神的に急いでいるのだろう。急かされているのだろう。
もうちょっと、もうちょっとだけでも、くつろいでいいんじゃないだろうか。
以上、「興味があること」へと駆り立てようとする社会への、ささやかな叛逆でありました。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は今日も課題に追われる。
いや、これは追われているんじゃない。自分がいまやりたいことをやっているんだ。
あくまで自分のペースなんだと、そう言い聞かせながら。