求めては、七:木嶋真優の四季

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木嶋真優独奏

松野弘明、他によるアンサンブル

2021年発売キングレコード
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マイケル・ケネディの破天荒も、ネマニャ・ラドゥロヴィチの新感覚も、ヴィヴァルディの四季という作品を通じて聴くと、その才能は意外にも際立たない気がしている。

型枠に収まりきらない自由人というよりは、自由に振る舞おうとして、却って、足許を掬われてしまっている様な居心地の悪さ、アウェー感が相当にある。

全ての天才ヴァイオリニストが、ヴィヴァルディの音楽で天才を証明する必要などないのだから、無理に四季を演奏する必要もないと思うのだけれども、中々どうして、挑戦したくなる音楽なのか、或いは、聴き手の不届きでそう感じるだけで、ご本人にはとっても自由なホームなのかも分からない。

木嶋真優の名前は、今回初めて知った。

メディアへの露出が多く、ヴィジュアルにも拘りのあるアーティストとして、市井にも広く知られた、美人ヴァイオリニストという事になるらしい。

容姿の事はよく分からないので、アルバムを聴いた感想に絞っても、とても才能のある、技巧もしっかりとした、古典の枠に行儀よく収まりきる様な器じゃない、そんな才人だ。

随分、ハードな音で録ってもいるので、ヴァイオリンの美しい音色を聴かせるつもりは初めからないらしく、ヴィヴァルディの音楽が持っている描写力の可能性と自らの発想力の掛け算で、新しい世界を切り開く系の四季となっている。

恋するフォーチュンクッキーという現代作品が併録されており、そちらの方が遥かにオーソドックスでクラシカルなプレーだった。

それだけ、四季という作品は構えざるを得ない、普通には済まされないメジャー作品という事なのだと思う。

ヴィヴァルディの時代の音楽には、大変に細やかで複雑な修辞学があって、音形一つ一つに意味があり、能の舞の様に、素養のある人にとっては、一つ一つの型から意図を明確に理解する事が出来るそうだ。

そういう面白さの世界線で、創意溢れるヴィヴァルディの四季を演っているの演奏が日本にもあって、武久源造率いるコンヴェルスム・ムジクムのアルバムは、どんなクロスオーバーなニュータイプの演奏よりも、妖しくて堪らない一枚となっている。

演奏の好き嫌い、良し悪しは兎も角、とっても奔放な演奏となっており(カルミニョーラやビオンディも及ぶまい)、それは、ヴィヴァルディの時代の音楽言語で、お約束を守り倒して(或いは、逆手に取って)、再現なく遠くまで行くからの自由さじゃないかと思う。

本当の意味での型破りが起きている、そんな如何にも日本らしいヴィヴァルディでは、ロマやモンゴルの音楽を彷彿とさせる土着の音すら鳴っている。

多くの天才ヴァイオリニスト達が、己の才能でもって、時代の壁を越えようと巧んで来た音楽にあって、考証学の延長線上から、そんな奇想天外な演奏まで出て来た後に、ヴィヴァルディの四季を録る難儀さは、素人考えでも十二分に残酷な話で、同情を禁じ得ない。

その中にあっては、木嶋真優の四季は、オリジナリティは比較的多くあった方だと思う。

一人の聴き手として各々のレコードに何を聴くか、それによって炙り出されるのは音楽の方ではなく自分の方だ、という案配で、私は音楽を聴き勝ちだ。

ヴァイオリニストの方も、そういう調子でもって、ヴィヴァルディを通じて自分を奏でている人達が多いのだとしたら、その違いは比較すべき様なものじゃない。

兎角、四季という作品は、利用される音楽だと思う。

それだけ、ヴィヴァルディという人も、他者を利用する作家であって、自ら本性を晒さない。

洋楽史上、こんなに醒めた作家も中々ないからこそ、演者は安心して自分を表明出来る、或いは、せざるを得ないのが、四季の魔力とも言いたくなって来る。

結局、ヴィヴァルディを聴いたな、って感触が、ない。

それでも、木嶋真優が鳴っているなら、それでよい。

四季は、演者の個性が出やすい、聴き比べの面白い音楽だ、なんて言われているけど、それは、余りに能天気な見解であって、蓋を開けてみれば修羅場じゃないか。

僕らは、大半、演者のアイデアを聴かされているだけで、そこには、作家も演者も不在じゃないか。

才気ある人のヴィヴァルディほど、そんな気持ちが沸いて来る。

ほんと四季ってやくざな音楽。

詰まらないよりは、遥かに好いよな。

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