CD:ボーンケのベートーヴェン、または神話にて

ベートーヴェンという人の音楽の、同時代の作曲家に対する優越性というものが、学術的に証明されているものなのか、否かは、漫然と聴くだけの私には分からない。

ただ、仮に証明されているのだとしたら、それは、ベートーヴェンの音楽が単に優れているというばかりの話ではなくって、ベートーヴェンの音楽に優位性を与える角度から、音楽を照らす学問が発達してきた、という伝統の証しでもある、そんな気がした。

僕らが直感的に、殆ど肉体的に、ベートーヴェンの音楽に感動し、精神を躍動させるのだとしても、それは、必ずしも、ベートーヴェンの音楽が優良なる為ではない。

相当数は、仕組まれたものなのだ。

勿論、それだって、構成要素のほんの一握りに過ぎない、仕込みには違いない。

万民に対して、ベートーヴェンの音楽は訴えない。

多様性を構成する一要素に過ぎないもの。

僕らが、多様性を認める時は、しばしば、己が多勢に属する時だ。

その寛大さは、何より傲慢によって担保されている。

傲慢は、殆ど無意識の善意なのだ。

ベートーヴェンの音楽の優勢を理解できない人にも尊厳を。

そんな前提の上に、19世紀の音楽を聴いていたのが前世紀であり、また、今世紀の実情でもある、と思う。

もっと、沢山の人が、ベートーヴェンの音楽が下らないものだと気が付くべきだ。

それは、音楽というものが下らない、という視座からではなしに、死ぬほど音楽が、それも、何なら、19世紀の独墺の音楽が好きで堪らない、という感性から、発せられるべきだと思う。

そんな事を考えずには済まない位いには、私はベートーヴェンの音楽が優れていると感じているし、そのくらいには愛してもいる。

要するに怖いのだ、ベートーヴェンの音楽が素晴らしいものだと直観している、現実が。

多勢である事も、優等である事も。

もっと、卑賤なるものの発露として、ベートーヴェンを愛でたいと願っている。

ベートーヴェンを愛するという事は、もっと恥であるべきなのだ。

月光ソナタを、高名なピアノ教授の演奏で聴いていて、ふとそんな事を考えた。

それは、とても、立派で、正統的で、節度があって、心身に沁みる音楽だった。

素直に好い音楽だと思った。

とてもアメイジングな事である。

だから、翻って、アジア人としての矜持が挫かれた、なんて気持ちが沸いた訳でもない。

もっと根元的な美しさを認めてすらある。

故に、闇は深まった、というだけの話であって、本質的には、そんな闇は些事である。

当世のスタンダードに照らせば、微細なクラックだ。

ベートーヴェンというkyozoの瓦礫を拾うのは、きっと、もっと将来に属する人達の仕事であり、慰めであろうから、僕らは、素直に見上げさえすればよい。

そんな感慨は、例えは、ベートーヴェンと同世代の、偉大なフランスの音楽家であるジャダン兄弟の作品を聴いても、決して、沸いて来ないものだろう。

個人的には、ヤサント・ジャダンに比べたら、ベートーヴェンの音楽なんて野暮なものなのだけれども、フランス人ですら、ジャダンのベートーヴェンに対する優位性には、余り自信がなさそうだ。

その辺は、令和の日本に暮らす特権の一つなのかも知れない。

それは趣味の先進性というようなものではなくて、袋小路を愛でる好事の極みの様なものとして。

だからこそ、安心して、夭逝のヤサントの音楽に、心を虚しくする事も出来るのだと思う。

多分な可能性を秘めた音楽。

詰まりは、答えの出ない音楽。

ベートーヴェンの音楽は、考えてみれば、何時だって、殆ど答えばかりかも知れない。

それは、単に夭逝せずに大成したから、というばかりでなくて、明確に着地点を見定めて走る、作意が明瞭にありそうだ。

その特異さこそが、ベートーヴェンの魅力であり、ある種の気味の悪さの正体という気もするのだけれども、それを普遍性と捉える向きも少なくない。

今更、楽聖とまで祭り上げられた人を、再び引きずり降ろそうという意図は少しもないけれども、普遍性こそは、何時だって排他的で選民思考ではなかったか。

尤も、祭り上げたが最期、嫌なら触らなけば済むだけの話なのだ。

それなのに、やっぱり気になっては近付くものだから、一曲聴いたくらいでも、火傷の一つもせずには済まされない。

何とも苛烈な音楽を、欧州人は発明したという訳だ。

僕らが、仮にベートーヴェンを見損なう事があるとすれば、そこには容易には抗えぬ、歴史があるからだと思う。

それは、死人の束とも言っていい。

束の厚みだけ念も深い。

そんな情念を引き起こすのもまた、何よりベートーヴェンの音楽自体に他ならないのだけれども、今ではすっかり奥の院であるという事こそ肝要で、怨念の正体は、寧ろ後者に帰属する。

ロベルト=アレクサンダー・ボーンケのピアノは、コンラート・ハンゼンとか、ギュンター・ルートヴィヒを連想させる、如何にもドイツのプロフェッソア然とした雰囲気のある音造りで、余所者には無愛想とも取れる温もりがある。

レコードの数も少く、愛好家からの評価も地味なものだけれども、指導を受けたピアノ学習者、演奏家からの尊敬の念の深さもまた、容易に想像できる音楽。

ファンタジーがテーゼのアルバムの中に、ハイドンの奇想曲、モーツァルト、シューマン、ショパンの幻想曲と共に、ベートーヴェンの月光ソナタが選ばれていた。

演奏は、当然、明瞭でファンタスティシュなものだから、余り幻想的ではない。

模範的、微温的、学術的、とでも言うべきかも知れないが、敢えて言うなら、宗教的か。

信仰告白とも言える敬虔さが、極東まで木霊する、そんなファンタジー。

そこまで引っ括めて、ベートーヴェンを聴いたなら、僕らの無頓着な生活を恥と思うどころか、寧ろ、栄誉に感ずるに違いない。

だからこそ、きっと沁みもするのだろう。

アカデミックであるという事は、最もストレートに心に響く有り様で、情動的ですらある。

観念的な聴き手にこそ初めて刺さるもの、とは言うまい。

思索する歪な音楽。

ベートーヴェンの音楽の奇天烈さに、多くの人が魅了されている。

その異様さを誰もが直覚する世紀が、何時であるかは分からないけれども、そんな時代にあってもなお、懲りずにベートーヴェンを愛でたなら、いよいよベートーヴェンの音楽は、美しく届くと思う。

そんな時代に生きる事は、自分には叶わぬ夢であるから、せいぜい、生煮えのベートーヴェンに中る事のない様に、火遊びくらいで済ますのが賢明だ。

アカデミーにおいて、それこそは、ファンタジーに違いない。

ボーンケのアルバムは、とてもよい案配だ。


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