映画:ダ・ヴィンチは誰に微笑む

サスペンス映画だと思ってスルーしていたら、限りなくドキュメンタリー映画らしかったので、興味が沸いて観に行って来た。

どこまで、真実に肉薄した映画だったのかは、正直、よく解らない。

フィクションよりもリアルは怖くて面白い、の典型みたいな映画であったのは間違いないけれども、ドキュメンタリーとして割かし丁寧に作られた分、エンターテイメントとしての面白さは、ややテンポが悪かった様にも思った。

やっぱり、絵が好きじゃないと、集中力が持たないんじゃないかな、という作りのドラマだ。

とは言えは、闇が深い分だけ、面白かった。

15万円の価値しか認められなかった絵画が、巡りめぐって510億円で落札される話。

ただ、それ自体は、金額が大きいというだけで、別段、凄い事とも思わない。

それが真作ではないかも知れない、というのも、普通の事だ。

そんな怪しい画にお金が絡むのは、日本式で言えば、骨董の世界の話と一緒だから、寧ろオーソドックスじゃああるまいか。

間違いのないものに、余剰のお金を出すのは、とっても詰まらない。

寧ろ、そういうスリルが全くないのが、サルバトール・ムンディの本当の闇だ。

絵画は、飽くまで、道具であり手段に過ぎない。

投機的な、或いは、政治的な、ただの商品だ。

最早、それ自体は目的となるモノじゃない。

言ってしまえば、適当な人が真作だと認めさえすれば、ダ・ヴィンチの作だろうがなかろうが、本当の所は、多分、どちらでも構わない。

偽物だと断定されないことこそか肝要で、それで役目は足りている。

価値さえあれば、それでよい。

ダ・ヴィンチのサルバトール・ムンディとは、そういう一つのシンボルに過ぎないモノだ。

だけれども、冷静に眺めてみれば、それを滑稽な話だと笑える程には、僕らの生活だって、決して、アーティスティックなものでもない。

結果的に、サルバトール・ムンディの価値を底上げしたのが、大衆の注目そのものであって、それを徹頭徹尾プロモーターに利用された現実こそは、現代という一つのアート作品の、真正なカタチだったのだと思う。

こうして映画を観に来た僕らもまた、見物人を気取っているけど、アートの素材のほんの一部に過ぎないモノだ。

そもそも、イスラームの国のサウジの王子様が、キリスト画を本気で競り落とさねば気が済まない時代を生きているという事は、ダ・ヴィンチの画の真贋なんかよりも、余程、一大事である筈なのに、そんな事には、最早、誰も関心などありはしない。

最高の偶像崇拝を、僕らはアートのお題目の下に、臆面もなくやってのけている。

510億円なんて、はした金じゃあ、あるまいか。

アートの世界に、溢れた金が流れ込み、有象無象がそこに群がって、騙し合う。

そんな切り口でしか、案外に、ダ・ヴィンチという作家は、認識できないシンボルなのかも知れない。

僕らは今、アートという神話の時代を生きている。

文明社会なんて、間違っても思わない方がよい。

『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』とは、そういう映画の気がして、面白かった。


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