映画:僕愛、君愛

めくるめく平行世界へのパラレルシフトの連続に、登場人物よりも、観ているこちらの方が酔ってしまう。

原作の小説が、どの様に描いたのかは知らないけれども、映画は、意図的にそんな風に作られている気がした。

現実世界は、幾つもある平行世界の一つに過ぎない、という世界観の下に作られた物語である筈なのに、交わる事のない平行世界を幾度も見せらつけられる内に、その全ての世界が重なりあったものとして、現実世界を捉えてみたくなって来る。

僕らが見せつけられているものは、一つの可能性というよりは、全ての可能性の総和としての、一つの現実じゃあないのか、と。

勿論、そんなテーゼの物語じゃあない。

青春SF恋愛ドラマだ。

「僕が愛したすべての君へ」(僕愛)と「君を愛したひとりの僕へ」(君愛)は、どちらを先に観るかで、切ない物語となるか、それとも大団円となるか、結末から受ける印象は大きく変わる。と言われているけど、それは流石に大袈裟だと思う。

君愛を知らずに済めば、僕愛を能天気に観られる可能性があるというだけで、全て知ってしまえば、世の中が切なくなるという原理は、どちらから観ようが、平行世界があろうがなかろうが、変わりそうもない。

それに、先に観たせいなのかも知れないけれども、この作品のストーリーの主軸は、やっぱり、君愛の方にあるから、君愛から観るのは大団円コースの筈なのに、終いが円満であればあるほどに、気持ちはいよいよ切なさへとループする。

ただ同時に、作者のメッセージの軸は、僕愛の方に多分に傾いている気もしたから、二つの作品世界の結び付きは、単純なプロットの巧みさよりも、もっと不可分な根の深さがあって、 一双の屏風の様な景色に映った。

僕愛の方を先に観ても、果たして、同じ景色と映ったかは、平行世界を知る由もなければ、それは答えを出しようもない。

ただ、答えは分かりきっているじゃあないか、という確信も、困った事にあるんだな。

変わるまい。

それを、僕らは、直観とも取り、錯覚とも取る。

勿論、取らない事も、甚だ多い。


声優が本業ではない人達が、多く声を当てている。

それが好いなと思う場面は余りなかったのだけれども、気にも止めない場面が大半で、稀に嫌だなと思う所もあるにはあった。

随分、台詞の多い作品で、しばしば、長い。

原作が言葉で綴られた物語だという事を、その度に、実感させられた。

それは、作品のタイトルからして明らかで、「僕が愛したすべての君へ」も「君を愛したひとりの僕へ」も、結構、癖の強い、作為的な日本語だ。

言葉が持っている素面の強かさよりも、レトリックの妙味に尽きるし、ストーリーは、SFの設定の精密さよりも、伏線と回収の快感の中の方にこそある。

複雑に張り巡らされた線の上で自在に操られる駒としても、世界観を代弁する話者としても、キャラクター達は、みな少しずつ不自由な振る舞いで、生き辛そうでもあった。

だからこそ、健気にも見えたのかも分からない。

全てにおいて、何か少しずつ足りない感じが、結果的に好かったな。

否、君愛の最初の30分と僕愛の最後の30分が美しかったから、後は、どうなろうが平気だった、って言う方が正直だ。


正直ついでに、君愛と僕愛ではアニメーションの制作会社も違うし、作中、登場人物は、急に年齢を重ねるから、観ていて、どのキャラクターが誰なのか、半分、分からなくなって、ある意味、それが一番のパラレルシフト。

そんな酔ってしまいそうなパラレルシフトの連続も、それは、画力の問題ではなくって、きっとこちらの眼力の問題なのだろうから、出来たら、自宅で再生して、きちんと把握しながら眺めたい、そんな感触があったのだけれども、よく分からない揺らぎの中にこそ、この作品の美質が宿っていたとしたならば、それは決して暴きたくないものだから、やっぱり、劇場で観るのに限るとも限らない。

僕らは、全てを知る生き物じゃない。

全ての世界を観られる訳でもない。

そんな限られた現実を、掛け替えのないものとして、当たり前に受け入れている。

その確かな感触を、掛け替える側から垣間見れば、どんな景色と映ったものか。

まぁ、観て悪いというものではないけれど、観られない幸せというものは、相当に強いだろうな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?