最高に能天気な音楽を

聴きたい時には、ドラランドのサンフォニーが好い。

人によっては、最高に高雅な気分になれる音楽。

ドラランドは、リュリに替わって、ルイ14世から寵愛を受けた作曲家で、一連のサンフォニーは、太陽王の晩餐の為の音楽として作曲された。

考えようによっては、サティの家具の音楽を先取りしている様にも思えるけれども、晩餐の公開が政治であり戦略であったルイ王朝にあって、往時としては絢爛な大管弦楽は、それ自体が、ある種の主役というか、言葉によらないプロパガンダであったと見てもよいかも分からない。

そんな、最上級に贅沢な音楽を、今日、僕らはどんな手段で聴けるだろうか。

ユーゴ・レーヌが全12曲を録音した4枚組のCDは、この作品の全貌を初めて明らかにした世界初録音にして、未だに他の追随を許さぬ記念碑的な名盤であるけれども、廃盤となって既に久しい。

1990年の発売ながら、全てのCDが75分越えの総計5時間に及ぶ長時間収録で、演奏はどこを切り取っても穏健で伸び伸びとしており、もっと優れた演奏、踏み込んだ解釈、云々、そういう高みは幾らでも目指せそうな雰囲気を醸しつつも、聴き手を寛がせるという点において隙がなく、ルイ王朝の気分は勿論、20世紀末のCD全盛期の空気もふんだんに閉じ込められた金字塔だ。

サブスクリプションで全曲が聴けるかは分からないけど、動画配信サイトに全曲アップロードされているのを見掛けた事はある(けれども、あれは合法ではないんじゃないかな)。

ドラランドのサンフォニーは、レーヌ以外にも勿論録音はあるし、抜粋した1枚物ならレーヌの録音も現役で流通もしているらしいので、無理して金字塔に登る必要もない。

寛いだ普段着のために気張っても仕方がないし、罪悪感と隣り合わせて動画を流すのも寛がない(そもそも、それが平気な人なら、音楽なんて聴かずとも、十分に、寛いだ人生だ)。

或いは、生活の潤いの為には糸目はつけない、という思想ならば、法外な値段で中古品を買うのも悪くない。

楽士を一人、一晩雇うのよりも、安いくらいだ。

それに、誰もがドラランドの音楽に耐性がある訳でもないから、中には、嫌悪感に苛まれる人だってあるだろう。

そういう人の人生にまで、ドラランドの音楽が不可欠なんて事は微塵もない。

特に、既に自分の好きな音楽がある人は要注意。

序でに、音楽に特に関心のない人は要警戒。

結局、誰にも絶対なんてものはなく、誰にもその人の絶対はあるものだから、そちらを優先するが良いし、人は皆、自分が好きなものが好きなんだよな。

そんな当たり前の作用が、とても怖いと思って生きている人とだけサンフォニーを共有出来たら素敵な事だと思うけれども、今の時代にドラランドをわざわざ聴くなんて、それだけで十分、圧が強い人には違いない。

能天気にドラランドを聴いていると、際限なく、そんな空論に意識がまどろんでいく。

考えるという事を、際限なく許してくれる音楽が、多分、自分は好きなんだ。

しかと耳を澄ませて聴けよ、と言われるのは、多分、余り好かない。

耳障りは、嫌だ。

ドラランドのサンフォニーに、作家性を聴くのは、多分、困難で、作家の個性を見出だすのは容易かも分からないけれども、それより遥かに、この音楽は一つの時代を体現してしまっている気がする。

作者不詳の大和歌でも聴くように、かつてあった時に結ばれる。

肝要なのは、鳴っているのは今日であるということ、そして、今日の音楽ではないということ。

宮廷の管弦は、本来、僕らの様な下々が聴ける様な楽じゃないという現実を、易々と解き放ってくれたテクノロジーに、改めて敬礼することもなく、気に掛けることと言ったら電気代くらいのものか知ら、という脳天気さが、色々省みずに突っ走ったルイ14世の好んだ音楽に共鳴する、か否かは、まぁ、大した話じゃないか。

そんな憂いを孕まないでは、脳天気な音楽など作れはするまいし、こちらに届きもすまい。

届かなくたって構わない。

こちらが勝手に聴くのが好い。

ドラランドの魅力は、要するに、そういうもんです。

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