『鬼が笑う』を観て
昔から、夫婦喧嘩は犬も食わぬ、とは申しますが、それを子が喰らうと鬼となる、というのもまた、古今東西、刃傷沙汰の定石とか違うとか。
いやいや、鬼は金棒、刃物は使わぬ、実際、バットで滅多打ちじゃあなかったかい、と言ったが最期、鬼は自刃し、笑う暇もあったもんじゃありませぬ、という物語。
鬼が笑う所には、人間の不安も希望もありましょうが、彼らが流す涙にあるは、一縷の人情ばかり哉。
この映画のハイライトはウンコだな。と思った。
それは悪い冗談としても、果たして、冗談に善いも悪いもあるものかは、存外に怪しいものだと思えて来る。
目には目を、歯には歯を。それとも、右頬の次には、左の頬を差し出しましょうか?
暴力には暴力を、言葉には言葉を、死には死を。そうやって、僕直に生きれば、行き着く先は、鬼ヶ島、、とはいかぬ世にあれば、彼岸を臨み、海を往くより他にはない。
鬼子を生むは、これもまた、古より、人間と決まっておりまして、彼等が向かうべき故郷は、初めから、他所には見つけようもありません。
僕らは島国の出身で、外国は常に海の向こう岸にあるものだから、平生、外国の事を海外と呼び習わして違和感がない。
それくらい、海は隔てるものとして、僕らの生活に溶け込んである。
海外は、時には、彼岸よりも遠い場所とも言えなくもない。
日本という国の有り様について、強いて、何か憂えるとしたら、それは経済の衰退でも、学力の低下でも、文化の退廃でも、政治の停滞でもなくって、ある種、無自覚に、近隣諸国を見下し続けている事だと思う。
この国の平和で清楚な情緒を担保しているものは、実はとても排他的な自意識なのではあるまいか。
哀れみは、外套を羽織った蔑みに過ぎぬじゃないか。
私達の良心も、真心も、選民意識に蝕まれて、都合のよい同情で済ましている。
ウンコが、それを微かに照らしている。何度か観ている内に、そんな風にも思えて来た。
勿論、そんなテーゼの映画じゃない。
だからこそ、微かに浮き出るものが、作家の才覚であり、嗅覚の鋭敏さ、或いは、本当に作品が背負わされたもの、という観もある。
ツイートを検索すれば、賛辞は沢山見つかるだろうし、口コミを見れば低評価だってちゃんとある。
パンフレットを買えば鋭い洞察が寄稿されおり、きっと雑誌には批評が掲載されて、劇場によっては、上映後には舞台挨拶だって連日あった。
映画を紐解く手助けは、幾らも揃っていると言っていい。
そういう外野の喧騒を遮って、作品に対峙し、或いは、没入する事こそが、正しい鑑賞というものだ、と言う信念だって、人によってはあるだろう。
その上で、感想なんて、書くことなんて、正直に言えば、何もない。
ただ、また観に行こうか、と思う現実が、そのまま感想だとも言っていい。
古典が美しいのは、何より、読まれ続けてきた歴史があるからだ。
沢山の人の誤解に鍛えられ、沢山の人の想いを飲み干して、泰然とあるからだ。
作品にとって何より大切なのは、鑑賞の歴史を持つことで、作り手から独歩して変容した姿を、何時までも作家が預かり知る内は、その作品は己を生きていないと言っていい。
これだけ、クリエイティブが溢れて、誰もが発信する時代に、作品が生を受けるのは、至難な事に違いない。
この映画に関わっている全ての人にとって、この映画は代表作にはならないだろう、と思う。
将来、もっと凄いモノを見せてくれる、そんな予感に溢れてあるからだ。
それこそ、鬼が笑いましょうが、その予感を確かめに、毎度、映画館へ足を運んでいるんじゃないのかな。
だから、せいぜい、笑ってくれるがいい。
鬼が笑うところにしか、未来は決して拓かれない。
そして、どんな大作家も、最も美しい頁は、決まって予感の中にこそ花咲いて、傑作なんて、その後の果実に過ぎないものじゃあありますまいか。
最初は、よく解らなかったけど、いいタイトルの映画だな。
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