音楽の孫の五従兄弟

ヨハン・ルートヴィヒ・バッハという人がいる。

マイニンゲンで宮廷楽長を勤めた大バッハの遠戚で、ヨハン・セバスチャン・バッハとは三従兄弟、八親等の関係にあると言われているのだけれども、正確な系譜が解明されているのかは分からない。

この人の音楽を、大バッハは高く評価していた様で、かつては、誤ってセバスチャン・バッハ作と認定されていた作品もあった。

そもそも、バッハが所有していた楽譜によって、ルートヴィヒ・バッハの音楽は辛うじて今日に伝わったという面が大きかったから、多くの作品は散逸してしまっている様である。

バッハ家の音楽財産と言うと、大バッハの長男のフリーデマンが金策に困って、相続した遺品を二束三文で売ってしまって散逸した話が有名であるけれども、逆に、よくもまあ、出版譜もない様な作品が、時代を越えてこれだけの数残っているものだ、と感心させられるのが洋楽の世界でもある。

ヨハン・ルートヴィヒ・バッハを頂点とするマイニンゲン系統のバッハ家も、他の系統同様に幾代か音楽家が続いており、その最期を飾るのが、ルートヴィヒの孫、ヨハン・フィリップ・バッハだ。

バッハの孫で直系最期の音楽家となったヨハン・フリードリヒ・エルンスト・バッハとほぼ同世代で、計算が間違ってなければ、五従兄弟という関係になる。

そして、フィリップも大変に長生したので、没年で言うとメンデルスゾーンと一年しか変わらない。

メンデルスゾーン達が今日にまで連なる大バッハの再評価運動を展開していた端で、フィリップ・バッハが遠戚の巨星をどの様に認識していたのかは分からないけれども、バッハ一族にあって、ヨハン・セバスチャン・バッハの再評価を音楽家として目の当たりにしたのはこの二人だけだし、どちらの家系もここで絶えているのが、なんと言うか、時代を象徴している感じがしてしまう。

バッハ一族に列なっていなければ、フィリップ・バッハの作品が、今日、顧みられる事は決してなかったろうし、フィリップ・バッハの名前がクレジットされているCDを見つけて、そんなバッハいたかな?というのが正直な所でもあった。

そして、1752-1846という生没年を見て思わず驚喜した。

フリードリヒ・エルンスト以外にも、未だバッハ家は音楽家を輩出していたのか、と。


今回、聴いたアルバムには、大バッハの無伴奏チェロ組曲の6番と、フリードリヒ・エルンストの父で、大バッハの息子の中では一番冴えない事になっているヨハン・クリストフ・フリードリヒのチェロ・ソナタが2曲、そして、フィリップのスコットランドの旋律による変奏曲が収められている。

フランチェスコ・ガッリジョーニのチェロ、ロベルト・ロレッジャンのチェンバロによる2019年の録音。

フィリップ・バッハの作品は、若い頃に書かれたものなのか、かなり保守的というか穏やかな作風で、チェンバロが伴奏というのも既に前時代的なのだけれども、違和感がなかった。

テーマに続けて10曲の変奏が展開されるが装飾変奏に終始して余り起伏もない。

典雅と冗長の間を交錯する感じは、若い頃の作品とすれば如何にもこの時代の標準で、平穏なクリストフ・フリードリヒ・バッハのチェロ・ソナタと並べても遜色がなく、演奏が奮っているだけに、才気は余り感じられなくて、調度品の様な佇まいだ。

21世紀に引っ張り出されて困惑しているのはむしろ作品の方だろう。

そう思うと、自分のやっている事が今更ながら悪癖と思われて嫌になる。

そして、ヨハン・フィリップ・バッハの他の作品が、益々、聴いてみたくもなって来る。

もしも詰まらない作家なら、詰まらないという事を確かめたいし、もしも違うなら、真価を聴きたい。

大バッハの音楽なんて、もう立派なのは解りきっているのだから、聴かなくたっていいじゃないか。


ガッリジョーニのチェロで聴く、無伴奏組曲は、大バッハ指定の5弦チェロを復元して演奏しているのが、音がどこか軋んでいて官能的な美しさを伴わない。

それでも、音楽の美しさは、他の曲を軽く凌駕していて、ガボットなんか、もう最高だった。

こんな名曲も、百年前には、せいぜいチェロの練習曲くらいにしか思われず、名曲なんて言う人は殆どいなかったのだから、僕らの耳は何とも現金だし、時代の感覚に随分素直だ。

大バッハの音楽も、演奏の歴史に裏打ちされて、日進月歩、美しくなっていく。

そして、息子達の音楽にも、どんどん日が射している。

特に、フリーデマンのエキセントリックは、今の時代に一番ウケているとも限らない。

再従兄弟のベルンハルトも、三従兄弟のルートヴィヒも、遺された作品は僅かでも、聴く機会には割かし恵まれても来た。

それは、バッハ家の楽才が、大バッハ一人じゃないということと同時に、この人の才覚が如何に頭抜けていたかをも再認させつつ、18世紀の音楽界が、お伽の神話から解放されて、リアルな人類の昔ばなしとして取り戻される過程を聴くことにもなっている。

最近、バッハの音楽が、聴いていて、余り懐かしくないのは、そのせいなのかも知れない。

リアルタイムで、ヴェンツィンガー先生のガンバを聴いていた人には、きっと、バッハはリアルに響いたのだろうけど、今の時代にレコードで聴いて、知らない時代を懐かしく思うのは、18世紀の方が歴史となって、20世紀は神話の中に隠れてしまっているからだ、なんて言ってみたくもなって来る。

お伽噺って、案外、最近の事なんじゃないかな、フィリップ・バッハの穏やかななチェロ音楽を聴いていて、そんな感慨が沸いて来るのも、バッハ家が空前絶後の音楽一族として半ば伝説であるからに他なるまいね。

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