映画:ソクーロフ、Free!、山の教室


ここ1ヶ月に観た映画

9/22 (水)
劇場版 Free! the Final Stroke 前編

9/26 (日)
精神(こころ)の声 第1~5話

10/3 (日)
ブータン 山の教室

10/8 (金)
ブータン 山の教室

10/12 (火)
劇場版 Free! the Final Stroke 前編


大団円が最後は必ず待っている、と分かっているのに、とても暗くて困った終わり方をした映画の前編。

戦場の日常風景を淡々と記録して、どこか穏やかで長閑な雰囲気すら醸し出すのだけれども、そこに映っている兵士達は、後に全員戦死して遺体の収容すら出来なかったという現実。

世界一僻地にある学校の、映画すら観た事のない子供達が演じる映像に、いつまでもその純情さを保って欲しいと思ってしまう、産業革命後の利便性を謳歌した僕らの屈折した願い。

どの映画も、きちんと詳しく感想を書き残しておくべき、と何度も思いはしたのだけれども、言葉を見付ける事がどうにも出来なくて、遂に今日、諦めた。

何を言っても、放ったそばから嘘になる。

否、言語化した瞬間に、既に内心と大きく乖離してしまう。

映像が、そのまま内心と結び付いていて、言葉で思考していない。

そのくらいダイレクトに心に刺さっているらしい。

そもそも、自分で自分の内心が掴めているかも怪しいものだ。

観ていて楽しい場面もあった。

悲しい場面もあった。

やるせない場面もあった。

よく分からない場面もあった。

詰まらない場面もあった。

好かない場面もあった。

けれども、そういう切り取り方で気持ちをまとめる様な事だけはするまい、と常に意識がざわついていた。

ただただ、瞳に可能な限りの画を映させて、沸き上がる全ての言葉を吟味して、すっかり放棄させる事しか敵わなかった。

それは、感情を言い表せないというよりは、最早、どう感じてよいのか分からないという事で、感情を言葉に出来なかったのではなくて、意識を感情に変換出来なかったのだと思う。

ただただ見開かれた瞳であった。

或いは、屡々、閉じられた瞳であった。

それだけが、確かな意識であって、辛うじて自分を規定するものであった。

感情は後追いだ。

人間の本性にとっては、感情もまた借り物らしい。


Free!というアニメーション作品は、どうも女性受けを狙ったものらしい、という事を映画館へ行ってやっと理解した。

女は男が描く女に、男は女が描く男に、偽りを嗅ぎ分けるのが得意だ。

だからこそ、僕は、男が描く女が好きで、女が描く男が好きだ。

同姓には描きにくい、理想がそこに宿るから。

Free!の原作者の性別は知らない。

観ていて、ちょっと受け付け難い描写があるのは、何より、そこが女性よりの通人には受けるのだろう、とも思われる。

ストーリーは巧妙とも言えるし、安易だとも言える。

ただ、その中で、産み出されたキャラクターは、虚構の中を確かに生きていた。

作家には、筆一本で、作中人物を殺す事だって容易いだろう。

けれども、生というものは残酷で、一度生まれたが最後、無かった事には出ないいものだ。

それは、作り話の中であろうとも、現実(と私たちが信じている)世界であろうとも、殆んど変わりはない。

少なくとも、そういう風に、世の中を、私は認識しているから、それが例え、アニメーションの中の話であったとしても、幸せを祈らずには済まされない。


ソクーロフという人の映画は、やっぱり、よく分からなかった。

精神の声は、モーツァルトの音楽と共に始まり、モーツァルトの天才性と、それ故の生き辛さへと想いを馳せる。

それを、殆んど名もなき若き兵士たちと重ねて行くのだけれども、その意図は、きっと誰にも何となくは分かるものだろう。

けれども、本当の所は、誰にもよくは分からない。

それは、ソクーロフにも、きっと分からないのだと思う。

少なくとも、分かった気にはなるまいと思っている。

だからこそ、画全体に迷いがある様な気がした。

それが、天才の欠点なのか、長所なのかは分からない。

迷いこそは、映画に奥行や陰影を与えるものとも観えるし、何かしら不徹底で不完全なものとも映る。

作家が凄いのか、被写体こそが壮絶なのかも、分別はつかない。

僕らは結末を知った上で、この映画を観ているけれども、画の中の若者も、撮影中のソクーロフも、そんな結末を知るよしもない。

撮っているソクーロフと、編集しているソクーロフの間には、一体、どんな断絶があったのだろうか。

或いは、無かったのか。

彼もまた、言葉を持てなかったのではなかったか。 


ブータンは、僕らの生活からしたら、国そのものが秘境めいているけれど、そんな国の中でも最秘境の地にある景色は、ただそれだけでも美しく、住んでいる人達も、とびき美しく切り抜かれていて、思わずこのまま未開であって欲しいと願ってしまいそうな画となっていた。

しかし、それこそは、21世紀に、TOKYOの映画館から眺める今様の感慨であって、文明開花の投射によって、初めて美しく見えるものだとも言える。

キラッキラに輝く子供らの瞳には、もう言葉を失うより他はなかった。

けれども、いつまでも未開で不自由に、貧しくも幸福に生きて欲しい、なんて思うのは、都会人の傲慢でしかあり得ない。

それは、確かに切なる願いで、全く本心で、悪気もないものかも知れないけれども、それ故に、一層、質の悪い傲慢でしかあり得ない。

だから、一体、自分は何を願ったらいいのか、どうにも分からなかった。

この映画の途方もない清らかさを、どう飲み込んでよいのか見当もつかなくなった。

いっそ、地球が一瞬にして弾け飛んだら、僕らはみな一緒に解放されるのに、と思ったけれども、それもやっぱり、本心ではなさそうだ。

気持ちを上手く言葉に出来なくて、それが歯がゆい、と済ませられれば未だしもよいのだけれども、僕には、それは寧ろ、罪である様にすら思われた。

と言って、本当の所は、その罪に苛まれる気すら、自分にはないことも分かりきっている。

それを魂がえぐられる、と言ってみた所で、いよいよ嘘になるだろう。

白痴になるか、も少し人間を続けるか、その選択を、映画がこちらに問うている様な気もしたけれども、白痴もまた人間じゃないかと知っている、己の狡猾な自意識がまたおぞましくもあり、だけれども、そこにしか自分の居場所は結局のところない、という事までも自明であるから、黙って堪えるしかない、それが今日という日なのかも知れない。

この先は、暫く、新たに映画を観る予定がない。

言葉にならない以前に、暫く、観るには耐えないと思うのだ。

決められた時間、ただ座して、黙って瞳を開けるだけ。

世の中に、映画鑑賞ほど、受動的で、安楽で、気楽で、手軽な、娯楽もない。

それなのに、今にも、押し潰されそうな自分がいる。

ただ、その感覚だけが、冷たく心にまとわりついている。  

それは、恐らく、人間が幸福と呼ぶものだ。  

画面の向こうの人達と、それを分かち合う事が出来ようか。

半分、出来る気がするし、半分、出来ない気もした。

でも、やっぱり、全ての言葉は偽りだと思う。

気分も心を欺いている。

感情が自分を捉えていない。

けれども、意識が覚めている。

まるで、自分が映画を撮っている様だ。

だから、冷たく、幸せなのだ。

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