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#2 自殺の研究とは安楽死ボタンの錬金術である【週刊自室】

 生んでくれと頼んだ覚えはないそこのあなた、こんにちは。
 生まれてきてしまったものは仕方がないと思っている私です。
 まあ親だってこんな子を産むつもりはなかったでしょう。そう考えると親も被害者ですよね。こんな子で申し訳ない。

 さて、今日は明るい話です。
 明るいといっても、自殺についてのあれこれを書くつもりなのですが。
 自殺という課題に当事者として取り組んできた(つまり死にたがりな)身としては、自殺とはより幸福な状態に至るための手段のひとつであって、それはいかにして幸せになるかという普遍的な問いの範疇に属するのです。

 今回は、このあまりに大きすぎる問いに対して、自殺という行為を中心に据えたささやかなアプローチを試みます。それも、なるべくカジュアルに。

 というのも、自ら死を選択するという行為は、もっと明るい文脈で捉えられてもいいのではないかな、と私は思うのです。

なぜ自殺をするのか

 自殺という問題に命の当事者として向き合ってきた経験がある人のことを「自殺当事者」、自殺を今まさに計画している人のことを「自殺志願者」と呼ぶことにして、ここでは、自殺当事者が経験している「自殺に至る過程」について、『ヒトはなぜ自殺するのか』(ジェシー・ベリング著、鈴木光太郎訳)の4章にて紹介されているロイ・バウマイスターの説を参照します。
 私は精神科病院の一室でこれを読んだときに文字通り唸ってしまいました。あまりに図星だったからです。

 説明がてら、この説を受け入れた上で自殺当事者にとっての一番の問題とは何なのかを考えましょう。

 まず、今の社会で起きている自殺は、自らの人生に対する終わりのない不満足が起点になっている場合が多いと思われます。これは言い換えるなら、生きていくことへの絶望、というより、頼りにしていた希望の喪失です。
 最もわかりやすいかたちでいうと、受験の失敗や失恋、あるいは失職などがそれに当たりますが、この希望の喪失はすなわち「持たないことの苦しみ」というよりは、「失ったことの苦しみ」と表現できるでしょう。
 「幸せとは満足へ向かう加速度のことだ」という森博嗣氏の言葉を援用すれば、不幸とは不満足へ向かう加速度を意味します。このマイナスの加速度が、自殺への道程のスタートとなるわけです(私は「加速度」ではなく「速度」という言葉の方が適切ではないかなと思うのですが)。

 この「期待値に届かないこと」の先には、その不満足の原因を自らに帰属してしまう「自己への帰属」の段階や、それによって執拗に自分のことを責め立ててしまう「自意識の高まり」の段階がありますが、ここで最も重要視するのは、その次の「否定的感情」の段階です。

 自殺の道程を歩んでゆくにつれ、思考は近視眼的なものへと変化し、未来への憂慮などといった大局的なものの見方はさっぱり失われてしまうことになります。この段階で一番の問題となるのは、”今この瞬間”の精神的苦痛です。

 「精神痛」とも呼ばれるそれは、自殺に臨む人間にとっての最大の悩みです(少なくともあのときの私にとっては!)。
 文字通り、生きていることが苦しいのです。
 今すぐにでもこの苦しみから逃れたい。できれば永遠に。
 そのためにはどうしたらよいか?

 簡単です。自分を殺せばいいんです。

 こうした衝動から起こる自殺行為は、つまり「生からの逃避」であるというふうに説明できます。

 何度か自殺未遂モドキを起こしたことがある私の経験にも(こう言うと逆に信憑性がなくなりますね)、この説は当てはまっています。

 私の自殺願望は、「これからの人生は自分の思うようにはいかない」という確信から始まりました。この確信は私に途方もない絶望感をもたらし、「自殺という選択肢が最良である」という意識をつくり出します。
 やがて「否定的感情」の段階に至った私にとって、思うようにいかない人生を生きているという苦しみから逃れるためには、自殺のデモンストレーションや、それによる身体的苦痛は最も効果的でした。

 それはなぜか?

 これはつまり、「身体的苦痛は精神的苦痛に勝りうる」ということを意味しています。

シャンプーが目に入ると、死にたいことなど忘れてしまう

 豆塚エリ氏のエッセイ『しにたい気持ちが消えるまで』には、彼女が飛び降り自殺を図るまでの過程と、その後の身体障害者としての生活の実情が書かれています。
 このエッセイの内容には、ある一つの大きな特徴があります。

 それは、「自殺未遂以後の部分には、自殺念慮に関する語りが全くと言っていいほど見当たらない」ということです。

 飛び降りるまでを語ったこの本の前半部分には頻繁に自殺についての記述がありますが、飛び降りた後の部分を読んでいると、その内容の大部分は身体の治療についてや車椅子生活の難しさ、身体障害者と社会の関係についてであり、自殺未遂以後の自殺念慮についての語りはほとんど見当たらないのです。

 私はこれを、「自殺のことなどを考えている場合ではなくなった」のだと解釈します。(もちろん、長い間自殺という問題と向き合い続けた結果、自殺を検討しなくなったという部分も大きいと思います)

 特に、飛び降り直後の入院生活や治療の内容に関する部分を読んでいると、掻くことのできない痒みなどの身体的苦痛についての記述が目立ちます。
 読んでいるだけで苦しくなってくるようなその語りは、けれども死にたい気持ちについて一切説明していません。
 それは単に、そういう気持ちが身体的苦痛よって忘却されたということを意味しているのではないでしょうか。

 先に登場した『ヒトはなぜ自殺するのか』においても、この考えを補強する内容の引用がなされています。

見えない苦痛が耐えられないレベルに達した人の自殺は、燃えている高層ビルにとり残されてしまって最終的に窓から飛び降りる人のそれと同じである。(中略)炎がすぐそこまで来たなら、飛び降りて死ぬほうがまだ少しはましなように感じられる。飛び降りるのは、そうしたいからではなく、炎に対する恐怖からだ。

『無限の道化』(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)

信じられないほどの身体的苦痛のほうがまだ耐えられるという事実は、精神的苦痛がどれほどその人間を消耗させるのかを示している。

『ヒトはなぜ自殺するのか』(ジェシー・べリング)

 この理屈を用いると、自殺衝動と同時に自傷衝動についても説明できます。
 つまり自傷行為は、「精神的苦痛」から「身体的苦痛」へと精神の焦点をずらすために行われるのだと解釈できるのです。
(たとえば私は、自分を罰する意味で自傷行為を行ったことがあります。これは、「罪悪感」という精神的苦痛から逃れるための行為だったと考えることができます。)
 私はこの「身体的苦痛は精神的苦痛に勝りうる」ということを、ある象徴的な出来事によって体感しました。

 私が「死にたいなあ」などとぶつぶつ考えながらシャワーに入っていると、現を抜かしていたせいか、シャンプーが大量に目に入ってきました。
 慌てて洗面台に行って目を洗っているとき、私はふと、自分が死にたい気持ちを忘れていることに気づいたのです。

 以来私は、身体的苦痛が精神的苦痛を覆い隠すはたらきを「シャンプー効果」と名づけました。だからどうということはありませんが。

 ひとまずここで主張しておきたいことは、

・自殺とは精神的苦痛というマイナスから逃れるための行為であり、
・自殺当事者にとっての問題意識は、生きることによる苦しみからどう逃れるかという点にある

という二点です。
 なぜこれを強調するのかというと、この問題意識は当事者に特有のものである(気がしてやまない)からです。

社会による「死」の絶対的な否定

 Googleで「死にたい」や「自殺 方法」などといった、自殺念慮を仄めかすようなテキストを検索すると、こころの健康相談統一ダイアルの番号が出てきます。
 これは、自傷・自殺衝動に駆り立てられた場合の応急措置として、「相談」という方法を提案するものです。
 こころの問題に関する相談サービスの評判はともかくとして、では実際に悩みを吐露した自殺志願者を「救う」言葉とはどのようなものでしょうか。

 私は、死にたい人にとって真に必要なのは言葉ではなく無言の抱擁であると考えているので、そもそも言葉によって自殺志願者が救われることがあるのかという疑いは抱いているのですが、その上で最も「救い」に近い言葉を考えてみると、それは自殺志願者を「殺す」言葉ではないかと思います。

 自殺志願者は、生からの逃避としての死を切実に希求しています。
 かれらを救うことができるのは、かれらを生きる方向へと導く言葉ではなく、かれらを一時的に死なせるための「殺す」言葉、よりわかりやすく言えば「看取る」言葉ではないでしょうか。

 「今までよく頑張ったね」
 「疲れたね」
 「もう生きなくていいんだよ」

 これは私個人の考えになってしまうかもしれませんね。
 けれども実際、私が精神的に相当参っていたときに一番他者から聞きたかった言葉は、上に書いたような「看取る」言葉でした。
 他者に「看取られ」た後、葬式で流したい音楽(私は平沢進の「ナーシサス次元から来た人」を流したいです!)を聴くことができたら、一時的に死を獲得したような気分になるのではないかといつも空想していました。
 これはいわば、精神的なアプローチの自殺未遂です。
 喉から手が出るほど欲しかった死という状態を一時的に獲得したかのような気分に浸ることで、自殺衝動を発散する。
 私はこういうサポートを電話でしてくれたらいいのにな、とか思っています。

 ですがまあ、そういうわけにもいかないのでしょうね。
 私は、自殺志願者に対してこの社会やそれに属する非自殺当事者がとるアプローチは「人命救助」の側面が強いと感じています。

 あるとき私の友人に、「自分は死にたいけど死ねないまま生きている」という話をしたとき、彼はこう言いました。

 「それでいいんじゃない?」

 彼はおそらく、「死ぬこと以外かすり傷」「生きてるだけで丸儲け」的なニュアンスでこの言葉を放ったのでしょう。けれども私にはその言葉が、「あなたは苦しみながらでも生きるべきだ」というふうに聞こえてしまって、なんだか随分と人ごとだな、と思ってしまいました。
 こちらとしては、死ねない苦しみというのは先に述べたような「精神痛」という切実な問題であり、それを抱えたまま生きるなど到底考えられないことなのですが、非当事者からすれば、その人が苦しんでいるかどうかということよりも、その人が「生きているかどうか」ということのほうが重要なのです。

 彼はきっと、自殺志願者を救う言葉は何かと問えば、それは自殺志願者を「生かす」言葉だと答えるでしょう。彼にとって自殺という問題は、単に人命救助のカテゴリに属するのです。

非自殺当事者にとっての問題意識は、自殺志願者の生死の行方にあるということは、自殺当事者のそれとすれ違います。
 つまり、自殺当事者にとってのメインテーマは「生死の形態を問わず」「楽になること(マイナスからの脱出)」であるのに対し、非自殺当事者は自殺当事者の「生存」を望むのです。

 私は自殺当事者の一人として、このズレに苦しんできました。
 私を含む周辺で、私だけが私の死を望んでいて、私以外の全員は私の自殺を食い止めるために様々な策を弄していたわけです。
 それは、私の命をめぐる一つの対立でした。

 しかし本来、自殺という問題は、当事者と周辺の人物たちで手を取り合って解決するべきものではないでしょうか。

 この記事において私が話したいのは、社会全体が建設的な選択肢としての死に対して容認的になれば、もっと多くの人が生を素晴らしいものとして享受できるのではないか、という(こう書いてみるとなんだか過激ですね。普通に怖い。どうしよう。めちゃくちゃ怖い記事になっちゃう)妄想です。
 それは、「誰もが自らの選択によって簡単に死を獲得できる状態」が自殺の予防装置になり、また自殺当事者に「誰もが納得できる死の形態」を提供できるのではないか、という仮説でもあります。

 ここからは、自殺当事者は自殺を通じてどのように幸せを獲得しようとするのか(不幸から逃れようとするのか)、その図式について、単純な思考実験を通した説明を施します。
 それが、単に生からの逃避を意味しない「建設的な死」の姿を示すことにつながることを祈って。

安楽死ボタンの思考実験

 あなたの目の前に、絵に描いたようなボタンが現れました。
 これは「安楽死ボタン」といって、押すとあなたは一切苦しみを伴わずに一瞬で死に至ります。
 このボタンは、今押さないと直ちに消失します。
 あなたはこのボタンを押しますか?

 この思考実験を通して何がわかる(と嬉しい)かというと、被験者(あなた)の今の生活状態が総合して「プラス」であるか「マイナス」であるか(あるいはゼロであるか)ということです。
 ここでは死という状態を「永続的なゼロ」として基準に置き、今の生活や精神状態がそれより上であるか下であるか、というのを判断します。
 「死が永続的なゼロを意味する」ということに納得しない方もいるかもしれません。たとえば死後の世界の存在について肯定的な人とか。
 正直そこについては、だって死んだら全部なくなるじゃないですか、としか言いようがないです。そうなるとこの仮説はここで終了です。いままでありがとう。

 さて、この思考実験によって見えてくる図式というのは、つまり「自殺という行為は身体的苦痛という大きなマイナスを越えた先にある永続的なゼロを目指すものである」ということです。

 今この瞬間の精神状態がマイナスであるという感覚を前提として、自殺志願者のもとに提示される選択肢は、「一時の、また往々にして凄まじい身体的苦痛というマイナスを越える必要がある上に、失敗すれば後遺症という半永続的なマイナスを背負って生きていくことになるかもしれない可能性を理解した上で、永続的なゼロを獲得するために」自殺するか、「しばらくは精神的苦痛というマイナスを背負うことが見込まれる上に、このままずっとマイナスが続くかもしれないが、もしかしたらゼロやプラスに転ずることもあるかもしれないという可能性に賭けて」生きるか、のふたつで(はないかと思いま)す。

 こう捉えてみると、自殺というのは、より幸福になるための手みじかな手段の一つなのです。
 まあそれは流石に極端な捉え方なのかもしれませんが、けれども私のような、生きること自体に対しても怠惰な人間にとっては、そもそも生きているという状態自体が、永続的なゼロである死よりも不自然に見えています。ですから私にすれば、死というもの自体はそこまで悲壮的な響きを持っていないというか、なんというか。
 むしろそのほうが安らかでいいんじゃないですか。いや、そんなことないか?

 そして、より良い自殺の方法(身体的苦痛や失敗・後遺症のリスクがより矮小な自殺)を研究するということは、「安楽死ボタン」を用いた方法くらい楽な死にかたを究極の目標に据えて、自殺という選択肢を選ぶ上でのマイナスを減らす試行錯誤を行うことを意味するわけです。

 これはつまり、凡庸な自殺方法についての資料(卑金属)から安楽死ボタンのような究極の自殺方法(貴金属)を生み出さんとする、錬金術です。

 自殺の研究とは、安楽死ボタンの錬金術なのです。 

死ねないという現実、死なないという答え

 わざわざ錬金術という例えを用いたのは、自殺の研究が今の社会において一つの不可能性を抱えているからです。

 まず苦しみやリスクのない自殺方法というのはほとんど存在しないし、あるいはそれこそ本当に安楽死をしようと思っても、自殺を考えるような精神状態の人間が海外に行って様々なハードルをクリアして安楽死を賜ることが可能だろうかと考えると、やっぱりこの安楽死ボタンの錬金術は、安楽死ボタンが今現在では錬成不可能であるという方向に帰結するのではないでしょうか。

 しかし、錬金術の本当の主題が錬金術師の内的な部分にあり、また錬金術の発展の過程が様々な分野に恩恵をもたらしたように、この安楽死ボタンの錬金術も、錬金術師たる自殺当事者に新しい心的境地を与えるので(あればいいと思いま)す。その研究過程がどこかの分野に貢献することとなるのかどうかは全然わからないけれども、少なくとも私は自殺の研究によって理解できたものがあります。

 それは「死ねないという現実」と、「死なないという答え」です。

 幸にして私はひとまず峠を越えたようで、これ以上自殺の研究を急かされることのない精神状態でいることができています。
 どうせ自分は死ねないと分かりきっているし、それならば死ぬことを考え続けていても仕方がありません。
 まあ、生きることを考えられなくとも、せめて「何も考えない」くらいの状態ではありたいですね。それは限りなく死に近いので。

 その上で私がささやかに伝えておきたいことの一つは、実際死ねないというのは相当な苦しみであるということです。
 もし自殺の研究が安楽死ボタンの「錬金術」でなくなったら、つまり安楽死ボタンを本当に錬成することが可能な社会になったら、救われる人というのは、けっこういるのではないですか。

 それから、自殺当事者と非自殺当事者の問題意識が全然異なっているということも、この問題をより悲劇的なものにしていると私は考えています。
 どうか、自殺志願者を(できれば死なせずに)楽にしてあげてください。
 それこそ、言葉のうえで看取ってあげるとか。
 まあ、効果があるかどうかということについては、私は何にも保証できませんが。

 なんだか話がゴチャゴチャしてしまいましたが、私の妄想は以上です。

 今度はふんわり明るい話をしましょう。
 また来週!

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