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#7 なぜ小説を読むのはむずかしいのか——メタメッセージとしての物語【週刊自室】

 心がひどく抑うつ的になると、本を読めなくなることがある。
 文字を見て意味を理解するという行為が心底億劫で、やっとこさ本を開くことができても、数行だけ読んだところで身体が処理を拒絶してしまう。

 本を読むのは、とてもむずかしい。

 意味の続いた長い文字列を、物語であれ論考であれ、ひとつの体系として理解するには高度な情報処理能力が求められる。慣れも必要だし、読み手としてのコンディションも重要な条件だ。
 長らく読書という行為に対して苦手意識を抱えていた僕がようやく本を読むようになったのは、高校に入ってからのことだった。
 あまりジャンルは気にせず、どこかで書名を聞いた本だったり、誰かがお薦めしていた本だったりを気まぐれに手に取っていった。
 はじめはそのほとんどが小説やエッセイなどの文芸書だったが、次第に僕の関心は哲学や社会学の方面に向き、それらに関連する本を中心に読むようになった。
 学校生活がもたらす精神的な疲弊によって小説を読むことが困難になった僕は、生きづらさにまつわるモヤモヤをすっきり解消してくれるような理論を本の中に求めた。
 本当に調子が悪い時期は読書自体が困難になったりもしたが、今では多少状態が安定してきて、また専門書を漁るように読んでいる。
 しかし、いまだに小説にはなかなか手をつけられないでいる。月に一冊読めたらいいほうだ。
 個人的に、小説を読むのはなんとなく心理的ハードルが高い。
 それはなぜかと考えると、ひとつには小説がメタメッセージとしての側面を持っていることが関係していると思う。

 たとえば、主人公がカルト教団にハマっていくさまを描いた小説があったとして、その作者が伝えたいことが「主人公がカルト教団にハマっていくさま」である可能性は低い。
 もちろん作者にとっては「人がカルト教団にハマっていく過程」を描くことが目的であるかもしれない。でも、小説の中で記述されているのはあくまで「主人公がカルト教団にハマっていくさま」でしかない。これらは厳密には別物だ。
 どういうことかというと、その小説をまったく字面通りに読んで理解できるのは「主人公がカルト教団にハマっていくさま」だけであって、そこから「人がカルト教団にハマっていく過程」を描き出さんとする作者の意図を読み取るのは、小説をある種のメタメッセージとして解釈する行為なのである。
 「伝えたいとかではなく、ただ描き出したい」といったような場合に、それをメッセージと称することが適切なのかどうかはわからないが、ここでは小説と専門書を比較するために、テキストそれ自体をメッセージとして、書き手の意図をメタメッセージと呼ぶことにする。
 つまり、いわゆる小説の「メッセージ性」というのは、ここでいうメタメッセージの一種である。
 重要なのは、同じ「文字を読む」という行為の方法に差異が生じることだ。
 もしかしたらその小説の作者は、人がカルト教団にハマっていく過程というよりも、カルト教団の組織構造のほうを考察したかったのかもしれないし、カルト教団を舞台装置として「不安定さに抗いつづける人間の悲しみ」を描きたかったのかもしれない。あるいはただ、きれいな文章を書きたかっただけなのかもしれない。
 本当のところ作者がどういうつもりでその小説を書いたのかということは、本文中では明言されない。だから読者は、その小説を作者によるメタメッセージとして自分なりに解釈しようとする。

 小説をこのように読解するのは一見普通に思えるけれど、じつはとても特殊な行為だ。

 もしこの本が小説ではなく、「人がカルト教団にハマっていく過程」を心理学的に説明した専門書であれば、著者が何を伝えたいのかということは序文ではっきり明言されるだろうし、本を字面通りに読んでいくだけで大体の意図は掴める。本の中で「カルト教団はかくも恐ろしい組織なのだ」と直接書かれていてもおかしくない。
 それは、本の誤読可能性を低下させて「わかりやすい本」にするために重要である。
 こうした専門書は、字面通りに読むこと自体がやや難しいかわりに、メタメッセージを考察せずともおおよその趣旨が理解できる。
 いっぽうで、小説という形式になると、作者が何を意図して書いたのかということは、基本的に小説の中では明言されない。というか、あまりにはっきり明言してしまうと小説である意味が薄れるのではないだろうか。
 もし序文に「この物語はカルト教団の怖さを伝えるためにつくられました」と書かれていたり、物語が「カルト教団はかくも恐ろしい組織なのだ」という一文で締めくくられたりしていたら、なんだかちょっと違和感がある。
 もちろん、登場人物の言動等に作者の思想が滲み出ているような小説もあるし、そういう作品も好きだ。あとがきや解説を読むことで物語への理解を深めるのも楽しみのひとつである。
 けれどあんまりにも説明的なやり方をすると、それはもう小説というより専門書的である。
 もちろん専門書がつまらないというのではないけれど、専門書と小説とでは面白さの種類が違う。

 その違いのひとつが、まさに今ここで述べている「メタメッセージ性」だ。

 理屈を文字で説明してくれる専門書に対して、小説は理屈というものを言外に置いてきぼりにする。
 だから、専門書的な字面重視の読み方で小説を理解しようとすると、まるでわけがわからなくなってしまう。
 字面だけで読めばいくらでも誤った解釈ができてしまうし、その正解はいつまで経ってもはっきりしない。

 でも、その誤読可能性、わけのわからなさこそが小説の特徴であり、面白さなのだと思う。
 べつに、「小説の読み方に正解なんてない」と言いたいのではない。
 作者が何らかの意図を持って書いている以上、正解はある。
 けれど小説というのはその遠回りな性質上、作者の意図からある程度離れたところにある。
 だから誤読が生まれるのだし、読者には誤読する権利があると思う。

 どのような小説であっても、面白さやその表現方法は専門書と異なっていて、それゆえに小説を読むのは難しい。
 そしてその難しさゆえに、小説が描く物語は心に残留し続け、いつかひとつの「誤読」が花ひらく。
 それは物語に対する理屈を超えた理解であり、この現象こそが、小説の真髄なのだと思う。

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