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一 安定世界神話

 「ふゆのころ」では、あなたにとって全くどうでもいい事柄のひとつであろう私のバックグラウンドについて、心底うざったいくらいに懐古していく。

 私は、社会的な意味を持たない事柄が好きだ。
 もしそんな私と同じように、あなたが利益的でないものごとをこよなく愛する方であるなら、もしかすればこの連載は、あなたにとってわずかながらでも極めて個人的な意味を持つことになるかもしれない。
 そうであるなら、私にとって、それは至上の喜びである。


 記憶の道のりを辿れる限りたどった先に見えてくる断片の数々は、かなりの割合で恐怖的なシーンとしての側面を持っている。
 それはトラウマに近くもあるが、今となってはむしろ、単に私の建設的な面での自己形成につながったという意味で、すでに風化しきった負の記憶といえる。

 ここにいくつか、その風化した断片を挙げてみよう。

 まず、私が通っていた(というかろくに通わなかった)幼稚園での負の記憶について。

 あるとき、私は薄暗い廊下に座り込みながら、教頭先生にこっぴどく叱られていた。
 それがどのような内容だったのかは少しも覚えていないけれど、私はひどくうろたえて、半ばのたうち回るかのように泣いていた。
 叱られている私のそばを友人が無言で通りすぎて、私はいっそう逃げ出したい気持ちになった。それでも、逃げ出そうという考えは私の中には浮かばなかった。

 逃げ出してしまえば後でよりこっぴどく叱られただろうから、それは自然な選択だったのかもしれない。
 けれど多分、この時の私にとって、「逃げ出さない」というのは主体的な選択ではなかった。
 私は、この場から逃げ出したいと強く思いながらも、逃げ出すという選択肢を心の中でつくり出すことさえできなかったのだ。
 このことは、私が敬虔な「真面目教」の信徒としての素質を十分に備えていたことを象徴している。

 私はこの先も長い間、真面目であることに固執し、そしてそれによって苦しみ続ける。
 学校の全ての授業には真剣に取り組まなければならない。
 学校の全ての課題はきちんとこなさなければならない。
 そこから逃げるという選択肢は、ない。
 なぜなら、私はそうした強迫的な観念を、完全な無意識のうちに抱えていたからだ。
 私が少しずつそのことを自覚しはじめたのは、中学生になってからのことだったと思う。
 それも、本当に少しずつだ。
 完全にこの真面目教から脱出できた(と感じた)のは、私が成人した後のことだ。
 「真面目教」というキーワードは、今後もこの連載でときたま登場することになると思う。

 さて、この教頭にまつわる記憶はもう一つあって、それはおそらく卒園の間近、教頭の部屋でのことだった。
 私は教頭から、鉄道博物館のグッズらしき薄いノートを授けられた。
 幼い頃の私は鉄道が好きだったから、それに合わせたチョイスだったのだろう。
 黒い表紙の片隅には、博物館のロゴマークである汽車の車輪があしらわれていた。
 私にとってこの記憶は、少しあたたかな色調を帯びている。
 これはきっと、和解の記憶なのだろう。

 母に当時のことを訊いてみると、私がこっぴどく叱られていたさまは母のママ友に目撃されていたらしい。
 ママ友は教頭のあんまりの叱りっぷりに憤りを覚え、幼稚園に訴えたそうだ。
 そのことで教頭が反省の念を抱いたのか、卒園が間近となったタイミングで、特に何と説明することもなく私にノートを渡してきた、ということだった。随分と人間臭い教頭である。

 このノートを私がどう使ったのかについて、私は一切思い出すことができない。
 家中を探したら、もしかしたら現物を発見することができるかもしれない。なにかの機会に掘り出すことが叶ったら、いままでずっと開けずにいた引き出しの鍵が解かれるはずだ。
 まあ、私は昔からかなり飽きっぽいので、肝心のノートには何も書かれていなかった、なんていう可能性も大いにあるのだが。


 幼少期の風化したトラウマはもうひとつある。

 幼い頃の私は、ひどく偏食だった。

 見た目や香りが気に食わない食材は、口に入れるまでもなく嫌いになった。
 生野菜の類いは全般食べられなかったし、果物も好きではなかった。

 母はときどき、そんな私の分の食事だけおかずや具材を間引いていた。
 父や姉の前にトンカツとキャベツが出されているとき、私の前にはトンカツだけがあった。
 周りにサラダの小皿が出されているとき、私にだけその小皿はなかった。

 しかし母はそうするよりむしろ、そもそも私の守備範囲外の料理をあまり作らなかった。
 両親ともに心優しい、というか末っ子の私に甘いのもあって、なにか苦手な食べ物を無理やり食べさせられるようなことは一切なかった。
 これは何度でも書くが、私の両親は底抜けに優しいのだ。

 あるときの夕食で、母はカレーライスを作った。

 私は例に漏れずカレーが好きな子供だった。
 まあ好きといっても、母が作る料理はたいてい美味しかったから、別にとりわけカレーが好きということでもなかった。
 普通に好き。
 そう、普通に。

 ただ、このとき出されたカレーライスには、私の苦手な野菜が入っていた。

 緑色の、短い円柱のような、なにか。
 表面は分厚い皮のような感触で、噛んでみると円柱の内部がぐにりと歪む。
 ぶにぶにしていて、少し硬くて、苦手な食感だった。

 私はその野菜がなんという名前なのかを知らなかった。
 しかし、大嫌いな野菜であるということだけは、目にしただけで分かった。

 私は母に、そのことを伝えた。
 それもタチの悪いことに、「食べられない」という旨だけを伝えて、そこに暗に「取り除いてほしい」というメッセージを含ませたのだ。

 なんでもかんでも相手に察してもらおうとするのは、いいようもない悪癖だ。

 幼い私にとって、世界に存在するのは「私」だけだった。
 私の世界には、私しかいなかった。
 世界に私しかいないのだから、私以外の存在について考えることはできないし必要なかった。
 だから私は、立ち上る欲求のままに今この瞬間を生きることしか知らなかった。少なくとも、意識の上では。
 こう言うと、先の真面目教云々の話と矛盾してしまうかもしれない。
 けれど私はとにかく、何も考えずに生きていたのだ。
 目の前にルールがある。だから従う。
 母は察してくれる。だから察してもらう。
 幼い私の世界は、そういった単純な図式で回っていた。

 今になって振り返っているから、こういうふうにまるでかつての自分に自我がなかったかのような印象を抱いてしまっているのかもしれないけれど、当時の自分が何を考えていたのかがほとんど思い出せない以上、私にはこうした解釈を与えることしか叶わない。

 ともかく母は、私の我儘を察した。
 母は台所から小皿と箸を持ってきて、件の具材をひとつづつ摘んでは皿に移していった。
 そのこまごまとした作業は、母の疲労した精神を悪い方向に刺激したと思う。

 作業が終わったのを確認した私は、ちびちびとカレーを食べ始めた。
 すっかり冷めてしまったカレーは、私を夕食ににつかわしくない澱んだ気分にさせた。

 少しすると、二世帯住宅の階下から祖母がやってきた。
 母は祖母と何かの会話をし始めた。
 私はカレーを食べ続けた。
 しかし、スプーンを口に運ぶテンポは少しずつ遅れていった。

 幼い頃の私は、身体のエネルギー収支が圧倒的に「収」に傾いていた。
 食べるだけ食べて、あとの時間はたいてい家でテレビを見たりしているだけ。
 遊びに誘えるような勇気も友達も持っていなかったし、そもそもろくに幼稚園に通っていなかった(小学校はまあまあ通ったし友達もいた。でも勇気はあいかわらず無かった)。
 私の身体は、たいしてエネルギーを求めていなかった。
 私は中学に入るまで、空腹という肉体的感覚さえ知らなかったのだ。
 そのぶんはじめてお腹が空いた時は驚いた。
 なるほど、腹が減るとはこういうことなのかとようやく理解できた。
 それまでの私にとって空腹というのは、「なんとなくごはんたべたいな」という心理的な感覚でしかなかった。
 そのくらい、私は怠惰に生きていた。

 そしてとうとう私は、カレーを平らげるより前に満腹になった。

 私は、臆面もなく母にその旨を伝えた。

「運動不足により、お腹いっぱいです。」

 今でも覚えているくらいにはくだらない台詞だ。
 私はこの頃からすでに怠惰をアイデンティティにしていたのだろう。小賢しい。

 そして母は、激怒した。

 なにか怒鳴っていたのは覚えている。しかしその言葉たちは思い出せない。私にとってあまりにショッキングだったのだろう。少し記憶が飛んでいる。

 次の場面では、私はソファに座っていて、母は台所に立っていた。
 しばらくの沈黙が、リビングに重たく被せられていた。

 長いながいこの無音がいつまで続くのかと思っていると、リビングに突然、たがの外れたような笑い声が響き始めた。

 「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 それは母の笑い声だった。

 私はこわくなった。

 母がこわくなった。

 私は母にきいた。

「お母ちゃん、おかしくなっちゃったみたいだよ。」

 母は言った。

「おかしくなっちゃったのかもね。」


  私は、自分が母をおかしくさせてしまったことを申し訳なく思った。

 この強烈な恐怖の記憶は、今でも私の脳裏に焼きついている。
 母はこの時以外にも、まれに、本当にまれにおかしくなることがあった。
 私の記憶の限りでは、このカレーライスの日を含めて2、3回、おかしくなった。
 しかしそれらの負の記憶は、今ではすっかり角のとれた遺産になっている。

 それはなぜか。

 私が経験してきたこれらの負の原体験は、ふだんビニールハウスのように安定した環境で息をしていた私に、外界の厳しい寒さを教えた。
 そしてそのたびに私は、この世界を作動させている安定的で単純な図式というひとつの神話を疑うための取っ掛かりを得ていった。
 それはつまり、負の原体験、ひいては負の記憶が、この世界の不安定さに気付くための機会を私に与えてきたということだ。

 私の成人するまでの18年間が抱えたひとつの側面は、この「不安定さの理解」という主題をもって説明することができる。

 私の「安定世界神話」は、これから少しずつ、崩れていく。

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