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喜びの源は内在しているので、失われることがないことに気付けば、怖れは減少します。

『I<わたし>真実と主観性』81~83ページ

※2022/10/13追加 耳で聴いて学習 第3章 霊的浄化

明け渡しのプロセス

霊的探究者ならば誰でも、神へ至る道はすべて、明け渡しがその核心であることを知っています。しかし、明け渡しとは何であるか、またどうすればできるのかについては明らかではありません。確固たる技術がなければ、探究者はコンテント(内容/中身)を明け渡すために何年も費やし、以前から一歩も進んでいないと嘆くことになります。心(マインド)はわき目もふらず、果てしなくコンテント(内容/中身)を創出し続けるので、いくら明け渡しても間に合いません。これでは、負け戦です。

次に求道者が耳にするのは、コンテント(内容/中身)ではなく、コンテント(内容/中身)に対する執着心が問題なのだということです。これを聞いて、しばし安堵するかもしれませんが、すぐに次の疑問が頭をもたげます。では、どうすれば執着心をなくすことができるのだろうか?

その前にわたしたちは、執着心の構造をよく理解する必要があります。執着心は、信念と欲望を基盤としています。その信念とは、頭の中のコンテント(内容/中身)は幸せをもたらし、問題を解決してくれるというものです。つまり執着とは、考えること自体が幸福(富、成功、ロマンスなど)への道だとする暗黙の了解に対してのものなのです。

考えることを放棄するのは脅威です。といのも、それが生存のための主要なツールであり、考えを”わたし”だと思っているからです。その”わたし”はユニークで、個別的、貴重なものと見なされており、”わたしは誰か”という自己アイデンティティの主要なデータベースでもあります。

自己アイデンティティを失う恐怖から、抵抗が生まれます。自我(エゴ)の執着の源を発見するにしたがって、わたしたちは自分自身に魅了されているというきわめて重要な驚くべき発見に至ります。

たとえ思考が痛みや失敗を背負い、災害や苦悩を招いているとしても、わたしたちは”それがわたしそのもの”なので手放そうとはせず、思考との間に愛憎関係を生み出しています。そして、自己は思考の生存を確かにするために、ネガティブな感情から活力と満足感を”搾り出す”術を覚えています。また、不公平、苦難、失敗、罪悪感を生き甲斐としています。自我(エゴ)は密かに被害者の立場を”愛し”それに執着し、痛みと苦しみから歪んだ快楽と正当性を抽出しているのです。こうした傾向は、依存症やライフスタイルといったさまざまな場面でも観察されます。”敗者”という人物像は、音楽や物語の中でロマンティックに描かれているものです。(例:「ミスター・ボージャングルス」訳注:カントリー・シンガーのジェリー・ジェフ・ウォーカーが留置所で出会った”老いぼれた”ダンサーをテーマにして作った曲。七〇年代、さまざまな歌手によって歌われた。)

わたしたちはこれまでもずっと思考を愛し、大切に扱ってきました。思考のためなら言い訳もし、それをかばい続けてきました。また、嫉妬心さえ起こすこともありました。思考を賛美したかと思うと、次は罪悪感と自己嫌悪から自らを裁き、軽蔑しました。けれども、どのみち私たちは自分自身に心酔しているのです。そして、人生というドラマのパレードの中で、自己像はどんどん美化されていきます。愛するものを手放すのは、喪失の怖れをもたらします。自己にとって、愛する対象はすべて幸福の源のように映るのです。

次の核心的な問題は、わたしたちが感情的な愛を手放したくないということです。愛そのものというよりは、愛の対象への執着を手放すことができないのです。わたしたちは、愛の対象を失うと哀しみがやってくると思っています。しかし実際は、執着心が哀しむのであって、それは愛の対象が喜びの源であると思い込んでいることに起因しています。哀しみとは、”外側”にある幸せの源泉を失ったという幻想から生じています。

しかし、幸福感をよく観察してみると、それが内側にあるものだということに気づきます。確かに外側のものが誘発したかもしれないが、幸福感は内側から生じる喜びです。つまり、幸せの源は内側にあり、心が欲する結果が得られたときの、好ましい状況の中で放出されるものなのです。内面をつぶさに観察すると、あらゆる事象は、もうすでにそこにある内的な特性を刺激しているにすぎないことがわかります。そして、喜びの源は内在しているので、失われることがないことに気付けば、怖れは減少します。

「真実」から見れば、思考は”外側”のものです。驚くべきことに、思考こそが真の幸福感を得る妨げとなっているので、これは完全に捨て去ってもよいものなのです。


もう一度書きます。喜びの源は内在しているので、失われることがないことに気付けば、怖れは減少します。

少し噛み砕いて言葉にするなら、「考えすぎること」は解決にならないと言うことです。思考は完全に捨て去ってもよいものですから。何か問題が起きたと思ったら、なぜなぜと分析をしたり、いろんな考えを巡らせるのではなく、「すべては必然で起こっており、必ず良いことにしかならない。ありがとう。」という愛が基盤の気づいている心の立ち位置に戻れるかということだと思います。感覚をつかむには、日々、訓練することのみだと思います。

意識はどんなときにも等しく存在していますが、気づきによって登録される情報は焦点の影響を受けます。

全ての人はライトワーカー=万物の霊長類の長(おさ)=救世主として、ただただそれぞれの役割で、できる事を喜びで思う存分やっていきましょう。


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