【生い立ち】 Vol.2 (中学生編)
Vol.1では、幼稚園時代から小学校卒業までを一氣に書き上げました。
トータルで約8000文字。
果たして今回は何文字行くかな~
実はVol.1では一切記載していなかったですが、幼稚園の頃から電車大好き人間でした。
とは言っても、地元を走る「小田急ロマンスカー」が特に好きで「特急の運転士になりたい」と憧れていました。
そんな鉄道好きが爆発した中学生時代、果たしてどんなストーリーが待っているのでしょうか・・・
中学校へ入学(1986年4月)
小学校を横目に見て歩く事約1.5キロ・約30分の道のり。
高台の上に立つ中学校へはアップダウンがあり、なかなかの移動になりました。
自転車通学は認められておらず、この時間帯は隣接する高校の通学時間と重なり、道路が歩いている生徒でいっぱいになるほどです。
入学式は体育館で行われ、結構な人数が入ってきた。
そりゃそうだ。
3つの小学校から集まった生徒で構成された新一年生。
もちろん顔なじみもいるし、お初な人もいる
気になる生徒の振り分けは、各クラスの横長に書かれた一覧を見て、そこの教室へと入っていく。
ピッカピカの一年生
無事に入学式を終えてホームルームへ。
またもや担任は女性の先生やった。
木造校舎時代の小学校から打って変わり、鉄筋コンクリート4階建ての建物へ
一年生は4階のフロアだった。
なので景色がとてもよくベランダから海を眺めていた。
みんな緊張しているのか言葉数が少ない。
定かではないが、自分のクラスは生徒が44名か46名だったと思う。
教室がぎゅうぎゅうだったのは鮮明に覚えている
小学校時代とは打って変わって平和に過ごせそうな氣がした。
慣れてきたら給食の時間には、牛乳を飲んでいるやつをワザと笑かして吹かせたりするなど、ハチャメチャな事をやって遊んでいましたけどね(笑)
モノマネ・音マネをして笑かしたり、電車ネタで盛り上がったりといつも賑やかに過ごしていました
クラブ活動
幼少からの「電車好き」。
中学校からより開花する事態となりました。
それは・・・
「鉄道研究クラブ」の存在
なので、クラブ活動は即決。
しかも担任が顧問だからなお嬉しい。
クラブ活動の部屋があり、そこへ行ったら鉄道ジオラマがあり、ビックリさせられました。
めちゃくちゃデカいレイアウトだったもので・・・・
クラブ活動の時間には新入生4名(だったかな?)が集まり、たわいのない話や、盛り上がっていました。
じゃ、活動って何やるの?なお話。
今で言う「撮り鉄・乗り鉄・○○鉄」な事。
「○○線の○○系が臨時で運転するから」見に行こう、○○会社のイベントに行って来たよ~写真撮って来たよ~乗って来たよ~、なお話。
自分が知らない世界の話を聞けて、めちゃくちゃ楽しかった
また、写真は一眼レフかコンパクトカメラと、新たに誕生したお手軽カメラの「写ルンです」
レンズ付きフィルムと言われたが、デビュー当初はフラッシュもなく晴天時のみ発揮するカメラやった。
父親の一眼レフを借りたが、知識が全くなく、いつもへんてこな写真ばかりでした。たしか「PENTAXのME」だったと思う。
放課後の部活動
放課後の部活動は「科学部」へ入部した。
何故そこを選んだのか分からず入ったが、毎週近くの河川へ出向き、水質調査をやる。
やるのは構わないが、毎回往復約4キロの道のりを、重たいガラス製の水質検査キットを毎回持たされ、それが嫌で2カ月で辞めた。
吹奏楽部
科学部の代わりではないが、小学校時代に中途半端だった吹奏楽部へ改めて入りました。
ただ、歯の負担を考えて「トランペット」はやめて「ユーフォニウム」を担当することに・・
金管楽器に触れるのは何年ぶりだろう(自宅にトランペットがあるが放置)
3年生の部長の男、見るからにガリ勉君。何故か指揮者しかやらなかった。
おまけに「マイ指揮棒」まで用意している
別にそれは構わないが、なんせ融通が利かない。
部室に入り浸る3年の女先輩もおり、なんか息苦しい感じ。
でも、少しずつお話しすることでかわいがられる事になっていった
運動会などで演奏するのはめちゃくちゃ楽しかった。
お正月のスキー
もう、完全にスキーの魅力に引き込まれ、リュックサックにお菓子とチョコレートと飲み物を入れ、一日券とナイター券を使い一日中ゲレンデに居ました。
なので、宿泊していたロッジには連日「朝出たら21時過ぎに戻る」というスケジュールで滑りまくってました。
もう、楽しくて仕方がない♪
まさに水を得た魚状態♬
中学校一年生ではこれと言って「辛い出来事はなかった」と思います。
あまり印象に残っていないし、どちらかというと楽しかった事が思い出されます。
ただ、ショッキングな出来事が・・・
担任&クラブの顧問が結婚&産休になるとの事で
次年度(二年生の時)は「クラブが休止になるからよろしく」と・・・
メンバー唖然 Σ(゚Д゚;エーッ!
二年生(1987年4月)
学年が変わるとクラス替えがありました。
一年の時からそのままの人や、仲が良かった人と同じになったり
と一安心な部分も。
担任は男の先生へ
クラブ活動は「バレーボールクラブ」へ入りました。
他にやりたいことが無かったことと、授業でバレーボールをしてめちゃくちゃ楽しかったから~
部活でガッツリはやりたくなかったのでちょうど良かったです。
エレクトーンの買い替え
さすがに8年も使っていると、続々新型機種が出て来るわけで、教室でもそれに合わせて機種がコロコロ変わっていました。
やっぱり音が違うし多機能やしと思っていたところで買い替えの話になりました。
一氣に筐体が大きくなり、多彩な音色になりました。これまた嬉しくて弾きまくっていた記憶があります。
この機種の音色、好きだったなぁ~
この年の秋に新型(HSシリーズ)が出るとは知らずに・・・
みんな大好き?「恋愛トーク」
というかこれ「しくじりネタ」としても使えると思った(笑)
吹奏楽部の部室も入り浸る人がいなくなったのでとても開放的になりました。
そんな部室の中でのトークと言えば大概「恋愛トーク」になりますよね?
なんかしらんけど「誰が好きなの?」トークをする流れになって、最初は渋っていたんだけど、話さないといけない状態になり「〇組のM子ちゃん」と言いました。
そしたら三年の女の先輩が「えっ?そうしたら仲良くなって繋いであげるよ」的な事を言って来た。
「うそーん」な感じだったが「あ、お願いします」と言ったか言わなかったか定かではない。
結論としては「女の先輩とM子ちゃん」が仲良くなっただけというオチ。
なんだよ~期待させんなよ~ちょっとでも期待した自分がおバカだった話でした。
舞台はまたまた「吹奏楽部の部室」から
女の先輩と二人と話す事になって、たわいのない話をしていました。
どちらかというとメンバー全員と楽しくお話しできる環境だったので、色んな人と話をして楽しんでいました。
そんなたわいのないトークから「ぴん、めっちゃ面白いね~」と言われました。
「あ~そうなのね」と軽く流していましたが、何気なく話していた事でかえって相手に好意を持たれてしまったようです。
秋の運動会の時にはクラスの出し物で「制服の上着を貸してほしい」と言われ快く貸し出しました。
でも、単なる「先輩・後輩」だと認識しているし、あっけらかんとしていましたが、どうやら相手は違っていたようです。
もちろんそんなことも氣づかずにいつも通りに騒いでいましたが・・・
手紙をもらったり、アプローチされても、なんかイヤで逃げ回っていました。(ヘタレ全開(笑))
後から思えば「あ~そういう事だったのね」となりました(どんだけどんくさいんよ)
でもね、好みではなかったのよごめんやけど。。。
ウインターシーズンの前に・・・
衝撃な出来事がありました。
それは・・・
『私をスキーに連れてって』の放映。
TVCMで、ライトを背負っての夜間滑走、空飛ぶセリカ、ゲレンデで仲間達と滑る風景を見てしまったら、シーズン前にテンションダダ上がり♬
キュンキュンするラブストーリーに釘付けでした。
映画こそ見に行けなかったけど、翌年に出たVHSを買った。
後に「VHS→DVD→Blu-ray」と買い揃えてます。
この話だけで2時間は話せるかも♪
もちろんシーズン前には必ずこの映画を見て、テンションをあげていくし、仲間とスキーに行く時には、車内で必ず流していきました(笑)
なので、セリフはバッチリ覚えてます。「とりえあず」カシャ←
※この映画の影響は後々大きくなっていきます。
お正月のスキー
受験対策のために「行くのをやめる」事になりました。
Vol.1でお話した「中高一貫の学校へ行っていた方が楽」の意味を明かします。
アチーブメントテスト(通称ア・テスト)
神奈川県の中学に通う学生は、必ず「ここを通らなければならない試験」がありました。
それは・・・
アチーブメントテスト(通称ア・テスト)。
中学2年の3月に、2日間で9教科(国語・数学・理科・社会・英語・美術・体育・音楽・技術家庭)の試験を受けさせられる。
この試験の合計点で「受験する(受験できる)志望校をこの点数を元に勝手に絞られる」という不公平感満載な試験でした。
この試験の結果だけではなく、内申書と学力試験も加えるという選考でしたが、ここで点数を落としたら、良い高校へ行けなくなるから必死でやらなければならないという時代。
だから「中高一貫の学校へ行っていれば受けなくて済むよ~」と言う事でした。
そんなん分かるか~ってな感じ。
三年生(1987年4月)
学年が変わるとまたまたクラス替えがありました。
一年の時から腐れ縁で一緒の人、仲が良かった人と同じになったり
と一安心な部分も。
担任は違う男の先生へ
またまた嬉しい事が起こりました。
二年生の時には産休でお休みしていた先生が復活♬
「鉄道研究クラブが復活」することになりました
校舎の増築工事も終わり、吹奏楽部の部室やら音楽室が変わりました。
めちゃくちゃきれいな校舎でウキウキしたことは鮮明に覚えています。
遂に本領発揮!?
何かやろうとすると何かしら邪魔してきた先輩陣がいなくなり、みんなで「やりたいことをやろう」と色々な企画を立ち上げた三年生。
鉄道会社の工場や、乗務員の教習所の見学とか、企画して顧問に打診。
ほぼすべて実現させてくれました。
鉄道会社の広報課に連絡して文化祭の取材を受け、広報誌に掲載してもらえるという快挙もありました。
なんだかんだ楽しい一年間を過ごしせましたよ~。
恋愛に鈍感?空気が読めない?氣がつかない?
はい。
恋愛に鈍感で臆病?だったぴんでございます。
女の子の気持ちなんぞ「はぁ~?」みたいな感じでよく分からん感じでした。
でも「私をスキーに連れてって」のラブストーリーを見て「いいなぁ~いいなぁ~」と憧れを抱いていたのは事実です。
突然の郵便(封書)が・・・
とある日、一通の封書が配達されました。
差出人は隣町の知らない人。
小学生の頃から青少年の交流会に参加していたので、参加者の人かと思いきや、全く知らない人。
恐る恐る読んでみると・・・
「Мとはケンカ友達としか思っていないんですか?」と・・・
はい?どゆこと?
えっ?うそ?
この「М」と言うのは、確か「一年生から吹奏楽部」にいたメンバーで、二年生で同じクラスになり、よくしゃべったりからかったりして、楽しく過ごしていたクラスメイト&部活の仲間であり、三年生でまた別々のクラスになりました。
確かに部室とかでも些細な事でよく言い争いしていたし、何かしらやる時には率先して手伝っていてくれたような・・・
でも「好き」という感情はなく「真面目な学級委員長タイプ」としか思ってもいなかったし「電車大好きマン」であったから、新型車両の動向ばかり追っていたからです・・・
はい、ざんねーん ๐·°(৹˃ᗝ˂৹)°·๐
その後、部活の定期演奏会(?)みたいなものに参加して活動を終えてしまったので、関わることもなくなってしまいました。
「もったいないことしてないか~」と今になって思う。
お正月のスキー
またもや受験対策のために「中止」となりました。
というか、中止にさせられました。
昭和から平成へ
まさか元号が変わるとは思ってもいませんでした。
昭和64年が僅かで修了するとは・・・
なので卒業式は「昭和63年度卒業式」
開催日が平成元年3月。
実にややこしい・・・
高校受験
通称「ア・テスト」の点数その他もろもろで受験出来る学校が決められた。
今の時代でも「言っている人は言っている」が「○○高校へ入るやつは頭が良い・△△高校へ行くやつは・・・」みたいな学歴差別?な発言は日常茶飯事。
なので、通うのにはめちゃくちゃ遠いが、鉄道系の高校があったが、
言われた通りの私立高校を受験し合格。
「★何言っても無駄」
「★言われた通りにしなければならない」
「★従わなければならない」
な状況だったので、ここでも選択肢がなかった。
そして卒業式へ・・・
楽しかっただけにめっちゃ寂しかったです。
まとめ・・・
中学生時代の「★」の数は少なく思われますが、だいぶ端折っており、
動けるだけに監視が強くなっていたと思います。
出かけるにしても「必要ない」とか「一度行けばいいだろ」など勝手な価値観を押し付けて制限させられてました。
「★何を言っても無駄」
「★なんで?」
「★○○しなければならない」
「★○○するべき」
「★常に監視されている」
「★理不尽な理由で怒鳴られる」
「★何言っても無駄だから」
「★どうせ・・・」
「★理解してもらえない」
「★何かとコントロールされている」
「★ただただ怒られる・ストレスの吐け口」
「★自分の意見は却下される」
「★言われた通りにしなければならない」
「★従わなければならない」
何度も言っておきますが「不幸自慢」をしたいわけではありません。
「こういう扱いしかされてこなかった」という事実からの展開があるために記載しています。
ただ、ネガティブな印象が強く残っているのです。
でも、ちゃんと理由があったんです。
その理由はかなり先となります
まだまだ続く自己開示の旅。
関連する「ビフォーアフター」の「アフター」まではどれくらいの量になるかな~
最後に・・・
今回もここまでお読みいただきありがとうございました
大切な事なのでもう一回言います。
ありがとうございました~!!
次回は高校編に続きます。
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