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「名言との対話」7月5日。メッケル「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れることは無い」

クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 - 1906年7月5日)は、プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。明治時代前期に日本兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。

明治政府は陸軍の近代化推進の一つとしてドイツ帝国兵学教官の派遣を養成した。「近代ドイツ陸軍の父」モルトケは、陸軍大学の兵学教官であった愛弟子のメッケル少佐を推薦し、メッケルは1885年に着任する。日本陸軍はフランス式から、これを機にドイツ式の兵制に切り替えていく。

陸大で参謀将校の養成の任にあたった43歳のメルケルは、秋山好古などの優れた卒業生を鍛えている。モルトケを継承した戦略思想と名人であった戦術の講義を展開した。そしてこの講義の聴講を広く開放したので、当時陸軍大学校の校長であった児玉源太郎も聴き入った。

メッケルは親しくなった児玉源太郎の才覚を高く評価し、「児玉は必ず将来日本を担う人物になるであろう」と語っていた。

メッケルの勅任後、ほぼ20年経って日露戦争が勃発した時、メッケルは「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れることは無い。児玉将軍は満州からロシアを駆逐するであろう」との予想を述べている。結果はその通りになったのである。海戦では秋山真之参謀を従えた東郷平八郎がロシア艦隊に完勝し、陸戦では児玉の活躍もあり乃木希典がロシアを破った。そういう意味では、自信満々でまた禿頭・髭面のため「渋柿オヤジ」との綽名をつけられたメッケルは日本の恩人であった。

さて、この小論を書きながら、当時の主役たちの関係を年齢という観点から考えてみたい。

メッケルは1842年生まれ。その師匠の大モルトケ参謀総長1800年生まれだから実に42歳の差がある。43歳のメッケルの来日時はモルトケは85歳だった。児玉源太郎は1852年生まれで、メッケルの10歳年下の33歳だった。日露戦争が始まった1904年には、メッケルは62歳、児玉は52歳であった。

児玉は満州奉天開戦での勝利後、長岡外史参謀本部次長に「もうそろそろ戦争をやめる時である。何をぐずぐずしているのか!」と叱った。日本の国力では、このまま続けていると必ず負けるという見通しであったから、有利な状況で戦争を終えるようにと考えていたのである。児玉は軍人である以上に、政治的判断もできる人物だった。

児玉は知力を使い果たしたのか、1905年に日露戦争を勝利に導いた後、1906年にあっという間に亡くなった。日露戦争は、陸軍、海軍の実戦の立役者だけでなく、外債を募り成功させた人物、ロシアとの終戦交渉を担った外交官など、当時の日本の国領の限りをふりしぼった。その中の一つが、メッケルの役割だった。

メッケル自身は少将まで昇任している。退任後は日本陸軍のドイツ留学生の個人授業を行った。そのメッケルは、児玉と同じ1906年に死去するという不思議なめぐりあわせであった。

明治の日本は、人材養成のために各分野に、なけなしの予算をつぎ込んでお雇い外国人を配置している。学問、軍隊、建築など、それぞれヨーロッパやアメリカから、一流の人物が働いていた。その光景の中に若きメッケル少佐もいたのである。日本は幸運でもあった。

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