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「名言との対話」 4月20日。内田百閒「みんな、自分の本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」

內田 百閒(うちだ ひゃっけん、1889年(明治22年)5月29日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。別号は百鬼園。

岡山の造り酒屋に生まれる。第六高等学校を経て、21才、東京帝国大学入学。在学中に漱石の弟子になる。23才、初恋の人・清子と結婚。31才から44才まで法政大学教授。45才から文筆活動に専念。1971年逝去、82才。「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったものだ。

得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。岡山の六高に職を得ようとしたが、高校時代の遅刻グセが原因で拒否されるという逸話もある。後輩の芥川龍之介に慕われた。夏目漱石の二男・夏目伸六とも親交が深かった。「春の海」などの作曲で知られる宮城道雄に師事し、最初は師弟関係であったが、のちに親友となり、交流を描いた随筆は数多い。法政大時代は航空研究会会長として、学生を指導し、1931年には学生がローマまで飛行するプロジェクトを援助している。

戦時中、中里介山とともに日本文学報国会への加入を拒んだ。芸術院会員になることも拒否した。筋が通らないものは断固拒否したが、その百閒を記念した内田百閒賞は存在する。頑固偏屈かつわがままで無愛想な人であった。「官僚趣味」であるとも公言しており、位階勲等や規則秩序が好きだった。

2013年。神保町の古本屋で買った「内田百閒全集」第19巻を読んだ。この全集の中では「卒業前後」というエッセイが面白かった。帝大のドイツ語を出てもなかなか就職ができない。その様子が描かれている。「私も早く地位を得て、一人前になりたい」「早く地位を得なければならない」「一日も早く職に就かなければいけない」。

「世の中に人の来るこそうれしけれ とはいうもののお前ではなし」 「言葉のない音楽を聴いて出る涙は一番本物の涙だという気がする」「金持ちが貧乏人になるのはいい趣向ですね。しかし貧乏人が金持ちになるのはみっともない」

2016年に、私は岡山県職員研修を三光荘という建物で行った。その1階に「内田百閒コーナー」を見つけた。その時、昼休みに百閒先生の生家を探したが、見つからなかった。それから毎年呼ばれているから、今度は寄ってみよう。

名作『阿房列車』の内田百閒を継いだ阿川弘之は『南蛮阿房第2列車』を書いた。阿川は宮脇俊三に衣鉢を譲ると言っており、その宮脇は『時刻表2万キロ』を書いた。この3人の活躍で鉄道紀行文学紀行というジャンルが確立した。「その宮脇も鬼籍に入った今、誰がその衣鉢を引き継ぐのだろうか」という文章を 2011年に私も書いたこともある。そのとき私の頭にあった知人・野村正樹さんは若くして亡くなってしまった。

今回、『百鬼園随筆』(新潮文庫)を読んだ。この中に「明石の漱石先生」というエッセイがある。尊敬している先生にこわごわ対している姿が面白い。漱石の明石での講演の題は「道楽と職業」だった。このテーマの素晴らしい講演録は私も読んでいる。

2018年に黒澤明監督の最後の映画作品『まあだだよ』をDVD」でみたことがある。漱石門下の内田百閒先生と、彼を慕う門下生との長い交流の歴史を描いた、心暖まる物語だ。 強くて勇敢で恥を重んじるサムライを描き続けてきた黒澤作品のイメージとはまったく違う主人公は、ユーモアに富み、みずからの弱点をさらけだす、そして教え子たちに敬愛される人物だ。みていてほのぼのとした幸せな感情がわいてくる。あの世へのお迎えの「もういいかい?」に対し、「まあだだよ」とこたえる趣向の誕生日会から始まる。61歳から実に17年も続く、その間の先生と奥様と、そして教え子たちとの交流は胸を打つ。百閒先生を演じる松村達雄はいい味を出しているし、所ジョージ、黒澤久男、などが若い姿をみせる。

17回目の誕生会では、教え子の子どもや孫たちも一緒に祝う。そこで白髪の百閒先生は倒れる前に、「みんな、自分の本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」と孫たちに語りかける。風刺とユーモアの中に、人生の深遠をのぞかせる人柄と作風の百閒先生のこの言葉を深く味わいたい。

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