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「名言との対話」5月8日。捧賢一「開業の初心忘るなと春一番雪のなか白梅の咲く」

捧 賢一(ささげ けんいち、1933年6月24日 - 2018年5月8日)は、日本の実業家株式会社コメリ創業者。

新潟県三条市に生まれる。農林高校卒業後、実家の米穀店に就職。1952年、米利商店を創業。1976年、アメリカでホームセンターを視察後、ホームセンターに業態を転換する。1979年 - 株式会社コメリ代表取締役社長に就任。

新潟県三条市は日本一の金物の産地で農業の盛んな地域.であり、開業時より、金物や工具、園芸、植物、農業資材などを主力に扱っている。人様の物真似でなく、お客さんの声を聞き新しい業態となった「ハード&グリーン」はお客さんの2から3割が農家で、農村地帯では7から8割だ。食は生命と深くかかわっており、農業は決してなくならないとし。長靴、短管パイプ、セメント、灯油、、、などを販売し支持を得ている。「小売業はあくまで、お客さんの支持により生かされている存在で、結局は、世の中に必要とされているかどうかだ」とし、コメリは独自の戦略を貫いた。首都圏では馴染みがないが、コメリは妻の実家の群馬県館林の農村地区でも見かけたことがある。

 競争は世の常なれどきびしかり学びし老舗の廃墟むなしき

 入社式コメリの夢を語らえば新入社員の瞳かがやく

労働分配率総資本経常利益率を大事にし、社長在任中は増収増益を続けた。ホームセンターの市場規模は4兆円、それに農業関係の資材をくわえると9兆円の規模になる。「近さ、安さ、品揃え」を見据え、「船団方式」による出店戦略だ。低価格と圧倒的な品揃えの「パワー」を中心市街地に、近さと買いやすさ等の利便性を追求する「ハード&グリーン」を小商圏で埋め尽くし、インテリア用品の専門店「アテーナ」、資材・建 材・工具・金物の専門店「PRO」も展開する。2019年3月期には、営業収益3468億6300万円、経常利益182億3700万円まで、業容が発展している。

2003年に会長になり、地域での文化活動に注力した。地元の八幡宮再建の先頭に立つ一方で、雪梁舎美術館を創設する。ショッピングセンターを計画した際、その土地が地元の大庄屋が祖先を祀ってきた場所であることが分かる。また越後七不思議の一つ焼鮒(やきふな)の伝説が残っていた。ふるさとの財産ともいうべき大切な地に、地元の美術振興を願って美術館設立の構想を推進した。そして若手芸術家の育成を支援するなど、地域における経済、文化の基盤づくりを支えてきた。

捧賢一は「お世話になった市民の皆様やお客様にご恩返しをしていく」と繰り返し話していたので、没後に家族は、子どもたちのスポーツ環境の整備とし、時代を担う子どもたちの健全な育成に寄与したいということで2億円を寄付している。 市長は、遺志にこたえて「三条市コメリ捧賢一記念少年スポーツ育成基金」を創設している。

「初心忘るべからず」は、事業発展の大事な考え方だ。一方で、若いときには、商売に気乗りしなかった二十代にはうたごえ運動などに参加するなど、仕事よりも社会運動に精を出していた。そういった気質は、晩年の地域における優れた文化活動につながっている。ここにも初心を忘れない捧賢一の姿がある。

『捧賢一 歌集』を読了。

毎年詠んだ短歌を年代順に並べた立派な歌集。実業人らしいのは毎年の歌の冒頭に、コメリという会社の売上高と店数を記してあることだ。それは昭和63年(1988年)の「売上高181億円・店数57店舗)から、平成18年(2006年)の「売上高2474憶円・店数763店舗)まで続く。事業の発展と並走して歌を詠んできたという構成だ。

金子兜太と黒田杏子が巻頭をかざっている。金子兜太は「こういう人間を本物というのだろう」「しろうと恐るべし」、黒田は「捧さんは微笑佛です」と語り、それが歌集のタイトルとなっている。捧本人は「私の歌はどれも日記のような、素人の平凡な日記です」という。歌を自分のための日記であると考えればいいといいうことがわかった。

1988年「慎ましく広き背なりし学びおる人はダイエー中内社長」「日本にチェーンストアつくらんと渥美先生火のごとく燃ゆ」

1990年「旅立ちの息子は友に囲まれて母はひとりで泪ぐみおり」

1992年「ロスの旅古きホテルの片隅に飢えたるごとく『日経』を読む」

1993年「還暦を迎えし朝わが妻はあじさい床に生けてくれたり」「母の声に呼ばれしものか夢覚めて宿の障子は白みゆきたり」

1995年「ひとすじにビッグビジネス取り組めり松田先生と上場プラン」

1996年「亡き父に大連米利を報告す鐘楼堂の桜うつくし」

1997年「わが友を降格させし夜はさびし松原禅師の心経を読む」「亡き父は米寿の祝いなすころか東証一部上場お褒めくだされ」

1998年「アカシアの並木を抜けて朝日さす大連コメリの開店の旗」「己が舞」舞いてみれやと小椋佳われも生き抜く不況のりこえ」

2000年「1000億企業達成なせし夜は一人静かに感傷もよし」「情報化コメリドットコム開設す人の心をいかに伝えん」

2001年「桜咲く皇居の前のホテルにて資本提携調印なせり」

2003年「新株の発行なしてこの乱世生き抜くための地盤つくらん」「大引けの波乱の株価決まりたり一人ホテルに決断をなす」「大阪の百億企業を譲り受く住吉大社に日輪おろがむ」「激震の惨状のなか己が身をかえりみず朋友客を守りぬ」「おめでとう古希を祝いてくれし妻古き家にて年かさねたり」「七十歳のわが誕生日うららかに鳥さえずりてあかるき日なり」

2004年「商いて五十余年を過ぎきしにまたくり返し原点に立つ」

2005年「流通の革命叫びし中内さん逝きて戦後は六十年となる」

ダイエー創業者の中内功をうたった歌が、最初の「中内社長」から、最後の「中内さん」まで2首ある。呼び方からこの人の生涯がみえてくる感がある。歌は日記であり、歌は自分史である。


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