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「名言との対話」9月29日。佐々木喜善「どうせ食えないのだ。ならば書きたいことを書いてから死にたい。わたしは小説を書く。儂ァ話者じゃない、作家だ」

佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年10月5日 - 1933年9月29日)は、日本民俗学者作家文学者、文学研究者、民話伝説習俗口承文学の収集家、研究家。

岩手県遠野市出身。名うての昔話の語り部であった祖父から、遠野に伝わる民話、妖怪の話を聞いて育つ。

文学を志し、東京の哲学館(井上円了の妖怪学に興味)、早稲田に学ぶ。1908年、日本民俗学の樹立に邁進する柳田国男に紹介され、遠野の民話などを話して聞かせる。その話をもとに、柳田が記したのが、画期的作品『遠野物語』となった。

1910年に遠野に帰り、民話、伝説の収集活動を行う。1925年から3年半ほど、村長をつとめるが、その重圧と借金を背負い、仙台に移る。

キリスト教徒、神道の神主、そして京都亀岡の大本教出口王仁三郎を訪ね、支部も設立している。思想も遍歴もあった。

遠野には私も訪問したことがある。柳田国男が滞在した宿、河童伝説のある川、神社などを見て回った。その時、佐々木喜善記念館で佐々木の資料をみている。

三好京三『遠野夢詩人 佐々木喜善柳田国男』(PHP)を読んだ。
この本は、佐々木喜善が1904年から1933年まで書き続けた日記を重要な資料として使っている。佐々木は死の前日まで書いている。息子の佐佐木広吉が原稿用紙に移し替えたところ、2762枚あった。

貧窮と創作の間で揺れ続ける心境が吐露されている。柳田国男については、借金のほかに朝日新聞の嘱託への世話を頼んだら、そっけない手紙で断られたことも記してある。

仙台では常盤木学園の講師の口もあったが、やっと実現の運びとなった頃には体調を崩していた。河北新報での連載も持ったが、予定の半分で打ち切られてしまった。

佐々木は、幸、不幸の分かれ道のとき、「惟神幸倍也」という言葉を口ずさんでいる。これは「かむながらたまちはへませ」と発音し、すべてをおまかせする神さまのおかげで、幸いを倍にしてください、という大本教の祈りの言葉である。亀岡で私も意味を教えてもらったものだ。

「どうせ食えないのだ。ならば書きたいことを書いてから死にたい。わたしは小説を書く。儂ァ話者じゃない、作家だ」と決心する。そして、昔話を小説にしたて、「新しい切り口からえぐりこむ。素材は無限だ」と語り、突き進もうとした。

その矢先、共通の関心であるエスペラントで親交もあった宮沢賢治が亡くなって呆然とする。岩手日報は「詩人宮澤賢治氏 きのふ永眠す 日本詩壇の輝しい巨星墜つ 葬儀はあす執行」という見出しで、賢治の業績が語られていた。黒枠の写真もある二段抜きの記事だった。

賢治の死から一週間後に、佐々木も亡くなる。岩手日報は「土俗学の権威 佐々木喜善氏逝く」と伝えた。河北新報は顔写真も掲載し、民俗学的業績を列記し、人格をたたえて死をいたんだ。佐々木喜善は、46歳という、志半ばの死であった。400編以上の昔話の収集によって日本民俗学研究に功績があり、言語学者金田一京介は「日本のグリム」と呼んでいる。

文学を志し上京した青年は、偶然によって話者として民俗学に貢献して名を残すことになった。しかし、本音は小説家、作家たらんとしたのである。それは叶わなかった。

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