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「名言との対話」11月7日。久保田万太郎「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」

久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年明治22年)11月7日 - 1963年昭和38年)5月6日)は、大正から昭和にかけて活躍した俳人小説家劇作家

東京都台東区雷門出身という、生粋の浅草生まれの江戸っ子慶応義塾予科時代に森鷗外永井荷風に学び、運命が決まった。小説では伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描いた。

1934年昭和9年)4月、水原秋桜子富安風生らによって「いとう句会」が発足、その宗匠として招かれ、死の年まで続けた。晩年には日本全国各地を旅して紀行を執筆する。

戦後に俳誌「春燈」を主宰し文人俳句の代表作家となる。「神田川祭の中をながれけり」「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」「さびしさは木をつむあそびつもる雪」「あきかぜのふきぬけゆくや人の中」「水中花咲かせしまひし淋しさよ」「時計屋の時計春の夜どれがほんと」「あきくさをごつたにつかね供へけり」「叱られて目をつぶる猫春隣」

句碑も多い。桑名「獺に燈をぬすまれて明易き」。浅草神社「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」。駒形どぜうの庭「みこしまつのどぜう汁すすりけり」。慶應義塾大学構内「しぐるるや大講堂の赤煉瓦」。

1957年昭和32年)に文化勲章を受章しており、同時に文化功労者にもなっている。

戸板康二『あの人この人 昭和人物誌』は、交流のあった人物のエピソードを語る名作である。この中に何度も久保田万太郎が脇役で登場する。以下、記してみる。

徳川夢声と同じく久保田万太郎もスキャンダルや猥談をしなかった。明治の人のたしなみだった。川口松太郎は10歳年長の久保田万太郎のいちばん古い弟子で師匠としていた。「久保田万太郎と私」は名著。

渋沢栄一の末子渋沢秀雄は田園調布の生みの親であるが、久保田万太郎を俳句の宗匠にして渋亭と号していた。渋亭が「俳句なんて一向に進歩しないものですね」と言うと、ニコリともせずに「いえ、あなたの俳句は退歩しております」といったという。秀雄はこの話を嬉しそうに話していたという。

「茶の間の会」という親しい後輩が集まる会の席上でで、1962年の11月に銀座の「辻留」で野誕生会で「死後の著作権一切を、ぼくの慶応義塾に贈与する」とつげる。そして翌年5月に急逝。慶應義塾では「久保田万太郎記念講座」があり、内外の著名人を招いている。

晩年に酒を飲むと泣く癖があった。小泉信三が「君の作品は戦争中に書いたもののにも嘘はない」というと、突然泣き出したと小泉は追悼文に書いている。

以上、久保田万太郎という人物が匂うようなエピソードだ。自身は俳句は余技だとして位置づけていたのだが、そもそも俳句という文芸は本来は本業の合間に親しむ余技なのではないか。冒頭の俳句は久保田万太郎の人生をうたった傑作だ。


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