「名言との対話」12月7日。与謝野晶子「人は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
2010年に刊行した拙著『遅咲き偉人伝』(PHP)で与謝野晶子を取り上げている。
以下、近代最高の女性である与謝野晶子を包括的に私が論じたものであるので、転載する。
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与謝野晶子が63歳で亡くなった日の朝日新聞の記事を見たことがある。
詩操では「一世を驚倒せしめ」、明星では「一世を風靡した」、「名著を残し」、評論では「一家をなし」、「一面、女子教育家」だっとその幅広い活躍を報じていた。
住友本社常務理事を務め有名な歌人でもあった川田順の追憶では「若くして名をなした天才、、、」「敬服すべき糟糠の妻だった」ともあった。
与謝野晶子は、生涯で5万余首の歌を詠んでいる。その数は斉藤茂吉の3倍以上である。
生前の歌集は21冊。作歌時代は1年1冊のペースで歌集を刊行。評論やエッセイは15冊。そして童話100篇を書いている。
数々の記憶に残る歌や、平塚雷鳥との母性をめぐる論争、源氏物語の現代訳の完成、また全国を旅すると残る多数の歌碑の存在など、一人の女性がなしたとはとても思えないほどの仕事量であった。
「君死にたまうことなかれ」(半年前に召集され旅順攻略戦に加わっていた弟宗七を嘆いて。明星1904年9月号)
ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば 親のなさけは まさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せと をしへ(教え)しや
人を殺して死ねよとて 二十四までを そだてしや
堺の街の あきびとの 旧家をほこる あるじにて
親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり
君死にたまふことなかれ、 すめらみこと(皇尊)は、戦ひに
おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し
獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。
ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守(も)り
安しときける大御代も 母のしら髪(が)は まさりぬる。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや 十月(とつき)も添はで わかれたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき 君死にたまふことなかれ。
この歌は「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為」であり、世を害する思想などと批判を受けたことに対する晶子の反論は見事なものだった。
「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」(以下略)
「まことの心をうたはぬ歌に、何のねうちか候べき」。最後のこの一行はとどめの一撃である。
私が感銘を受けた歌をあげてみたい。
やわはだのあつき血潮に触れもみでさびしからずや道を説く君
春短し何の不滅の命ぞと力ある乳を手にさぐらせぬ
人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜を我ぬらむ願
ゆあみする泉の底の小百合花二十の夏を美しとみぬ
清水の祇園の夜の桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
四五日か三月ばかりか千年かかのいやはての口つけのちち
われの名に太陽を三つ重ねたる親ありしかど淋し末の日
「青踏」の平塚らいてう(1886-1971)らとの母性保護論争も有名である。
「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」とたからかに宣言した平塚らいてうは、「子供を産み育てることは、社会的・国家的性質を持つものであるから、女性が子供を育てている期間、国家の保護を求めるのは必要なことである」「女性は母性であるが故に保護されるべきである」と主張した。
それに対し、「労働することを人生の大きな「楽しみ」の一つとして考へて頂きたい」と徳島師範学校の講演でも話している晶子は「国家に寄食する依頼主義である」「男女は対等な関係」であるとして批判し、「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。
裕福な経済環境の中で論じていた平塚らいてう、山川菊栄(労農派マルクス主義の理論的指導者であった山川均の妻で片山内閣での労働省初代婦人局長)、山田わか(婦人運動家)らと激烈な論争を行った。
今日にも通じる問題である。
「12歳の時からの恩師」と呼ぶ紫式部の源氏物語の新訳は、1909年に依頼を受けライフワークとして取り組んで、1939年(昭和14年)に全6巻を完成している。途中1912年の関東大震災によって原稿が焼失するなどの悲劇があり、気を取り直して、乗り越えている。次の歌は、原稿がなくなった時の歌である。無念さが感じられる。
十余年われが書きためし草稿の
跡あるべきや学院の灰
この「学院」とは、羽仁もと子の自由学園とほぼ時を同じくして創設した学校で、文部省の規定に逆らって男女共学にした。晶子は教育にも熱心で後に重い役職にも就いている。
そして、晶子は消失した源氏物語の現代語訳に57歳から再び挑戦して60歳で全訳六巻を刊行してもいる。その時の歌が残っている。
源氏をば一人になりて後に書く
紫女年若く われは然らず
晶子・源氏は「大胆な意訳・女人の心をもって女人の心を見ている・近代の歌人の心をもって古代の歌人の心をとらえている」と讃えられた。序文を書いた上田敏は、源氏物語を現代口語訳の業が、いかにもこれにふさわしい人を得たとし、文壇の一快事だと言っている。そして「たおやかな原文の調べが、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびしたしゅうけいの口語脈に変じたことを喜ぶ。」と言い、「この新訳は成功である」と述べている。
この訳本には序文が二つ載っていて、もう一人は森林太郎(鷗外)だった。鷗外は「源氏物語を翻訳するに適した人を、わたくしどもの同世の人の間に求めますれば、与謝野晶子さんに増す人はあるまい」と言っている。
源氏物語は、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴、橋本治の訳などがあり、私は「窯変 源氏物語」を書いた橋本治の名訳・全14巻を読んでいるが、これも豪華絢爛たる名訳だった。
また、晶子は、愛の歌人でもあった。夫・鉄幹に対する恋心は、41年間に及び、その心を「みだれ髪」から没後に出版された「白桜集」に至るまで歌い続けているのも驚きである。
ヨーロッパにいる寛を訪ねるときの歌は、高らかなファンファーレが響くような歌である。
いざ、天の日は我がために
金の車をきしらせよ
あらしの羽は東より
いざ、こころよく我を追へ、、、
そして、私生活をさらにみると、驚きが広がる。
与謝野晶子は夫・鉄幹との間に実に11人の子供をもうけている。11回の出産で双子が二組あったから13人となるが、死産と直後の死亡で育ったのが11人となる。
24歳で長男光、26歳で次男秀、29歳で長女八峰、次女七瀬(双子)、31歳で三男麟、32歳三女佐保子、33歳で四女宇智子、35歳で四男アウギュスト、37歳で五女エレンヌ、38歳で五男健、39歳で六男寸、41歳で六女藤子。
つまり24歳から41歳までいつも妊娠状態だった、ということになる。その中であれだけの膨大でかつ優れた仕事を成し遂げたことに驚かざるを得ない。
これらの子供の名づけ親は、上田敏、薄田泣菫、森鴎外、ロダンたちだった。
「幾たび経験しても其度毎に新しい不安と恐怖を覚えるものは分娩」と述べている晶子は、いつも重い出産に苦しめられていた。
「母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ」
という出産を表現した女性としての壮絶な歌も詠んでいる。
しかし子どもが生まれると、晶子はすぐに仕事と育児に明け暮れる。そうした日常の中で、先に述べた多くのすぐれた仕事を残した。そのエネルギーに驚きと尊敬を禁じえない。
ところが子供たちからみると、口数が少なくいつも何かを考えていて、いつも心ここにあらずという風情だったらしい。母の作った料理を口にしたことはない、子供たちは晶子に看病してもらったこともなかった。
与謝野家の家計は、そのほとんどが「気むずかい父の機嫌をとり、一家の経済を一人の肩に背負っていた」晶子の肩にかかっており、生活のためにあらゆる仕事をこなしたという面もあったようだ。
ちなみに、自由民主党の重鎮であり政界屈指の政策通といわれる与謝野馨氏は鉄幹・晶子の次男で外交官であった秀(しげる)の長男である。
「折々に私はこんな事を空想することがあります。私に満3年ほど休養して読書することのできる余裕を与へて呉れる未知の友人はないかと。若し万一にもさう云ふ篤志な知己が得られるなら、私は今の毎月の労働を三分の一に減じ、月の二十日間を、特に教授に乞うて帝国大学の文科の聴講と図書館に於ける独習とに耽るでせう。猶その余暇に私は東京と地方にある種種の工場などを見学して廻るでせう。私は可なり欲が深い。史学、文学、社会問題、教育問題、婦人問題等に就いて何れも多少の重みのある著述がしたい。さうして同時に修めたいのは哲学、心理学、社会学、経済学等であるのです。」
何という欲張りだろうかと、その向上心に敬意を表したくなる。もし晶子が女性でなく、出産や子育てから解放されていたら、どのような業績を残しただろうか。
生涯に5万首の歌を詠み、23歌集を出版した与謝野晶子のエネルギーは並大抵ではない。
恋愛、家族愛、教育、著作、作歌、あらゆる分野に抜きんでた巨人・与謝野晶子のエネルギー源は、いったい何だったのだろうか。
一身にして二生を生きるという言葉があるが、与謝野晶子は、男の人生と、女の人生を、ともに十分に生きたのである。
年若くして世に出て、63歳で没するまで全力疾走で駆け抜けた与謝野晶子の生涯から学ぶことは多い。
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