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「名言との対話」11月11日。沢村貞子「目立ちたがらず、賞められたがらず、齢にさからわず、無理をしないで、昨日のことは忘れ、明日のことは心配しないで---今日一日を丁寧に--肩の力を抜いて、気楽にのんきに暮らしてゆこう」

沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体澤村1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本女優随筆家

東京・浅草生まれ。日本女子大中退。在学中に新築地劇団に入団し、左翼演劇運動に参加し治安維持法違反で2度逮捕。日活に入社し、デビュー。生涯に350本以上の映画に出演し、幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍した。自分の中にある部分をふくらませて、違う人間になれる女優という仕事に楽しさを見いだしていた。役は女学生、令嬢、酌婦、妾、女教師などなんでもやったところから始まった。女優は姿態と能力、加えて努力と運と考えて精を出した。主役はつぶしがきかない。沢村は脇役であればは健康で長生きしていれば、そのうちまわりが居なくなるという。沢村貞子の脇役志願は正解だったようだ。私も主にテレビドラマへの膨大な出演作品で沢村貞子の演技を楽しませてもらったくちだ。

この人は脇役という難しい立ち位置で独特の地位を得たが、一方でエッセイストとしても素晴らしい作品を残している。1977年には『私の浅草』出日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているなど、本格的なエッセイストでもあった。多くの本のタイトルに「わたし」がつけられているように、食事や食べ物など日常生活の中での見聞や感想の納得感が身上だった。本人が言うように毎日の暮らしを大切にした下町の女だった。

1989年(平成元年)、NHKのドラマ『黄昏の赫いきらめき』を最後に81歳で女優を引退。その後は横須賀市に隠居し、執筆活動に励みながら毎日湘南の海を眺めて過ごした。87歳で没。生前の希望どおり、沢村の遺骨は先立った夫の遺骨とともに相模湾散骨された。

『私の脇役人生』を読んだが、冒頭に掲げたこの本の中にある脇役と老後の心構えに共感を覚える人が多く、それが晩年の「老い」をテーマとした4つのエッセイ本に結実している。名脇役と名エッセストの二つの役をこなした沢村貞子の生涯は見事である。

沢村貞子については2018年に取り上げている。今回は役者になる以前のことを書いた『貝のうた』を読んだ。

沢村の父は「役者にあらずんば人にあらず」という人であった。貞子が生まれたとき、「チェッ、女か」と言った。歌舞伎役者は男でなければならなかったからだ。上の兄は役者になった、そして3つ下の弟が後の加藤大介である。

貞子は勉強が好きだった。「女のくせに、どしてこんなに勉強が好きなんだろう」と言われた。本人は学校の先生になろうとひそかに考えていた。寒村、へき地で、貧しい子どもたちを教えたいと願っていた。しかし教師の世界に幻滅する。「私とはなんだろうか。人間は、なんのために生きているのだろう」と考えるようになる。そして選んだのが新劇の女優の世界だった。23歳で結婚する。この世界は左がかっていて、貞子は牢屋にぶち込まれる。このとき「料理」の大切さに目覚めている。頭の中で料理をするようになった。それが後の名エッセイストのテーマになっていくのである。

この本で名脇役で名随筆家の沢村貞子の原点をみた。勉強好きであったこと、料理に深く関心を持ったこと、それが料理についてなどの優れた文章を書く下地になったのである。新たな視点で人物をさぐると、その人のことが一歩深くわかっていく。人物については、他の人物を調べているときに、その人の名前がでてきて、情報が付加されてゆく。少しづつ人物像が深まっていく。また、一度取り上げた人物でも、角度を変えると違う姿が浮かんでくる。それもこの連載の愉しみの一つである。


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